南あわじ市賀集の淳仁天皇の淡路陵は、巨大な陵墓です。舎人親王の第7子で、天平宝字2年(758)に即位し、6 年の在位ののち皇位をめぐる争いに巻き込まれ、天平宝字8年(764)淡路島に配流されました。

淳仁天皇の淡路陵は 南あわじ市賀集にあります。 

淳仁天皇の御陵に来ています。

淳仁天皇陵は、その周囲は堀が掘られ、

柵が設けられ、淳仁天皇陵に、

何人も立ち入られないように、警護されています。

淳仁天皇淡路陵には、

時々訪れて手を合わせています。

その時感じるのは、淳仁天皇陵の前の、

小粒の敷石は、いつも掃け目が付けられ、

落ち葉や、風で飛んでくるゴミが、

除去されていることです。

その管理は、宮内庁が行っているようです。

淳仁天皇の陵は

一つの山の大きさほど、大きな御陵です。

面積は、堺市にある、

仁徳天皇御陵の方が広いのですが、

淳仁天皇の陵も、周囲を回ってみると、

大きな広さを感じます。

古の時代から、天皇陵として敬われ、

警護されているため、

淳仁天皇陵に生えている樹木は、原始林のようです。

一本のクスノキを見ても、凛としてそびえ、

空をつくような、高さがあります。

淳仁天皇

淳仁天皇(大炊王)は

舎人親王の第7子で、天平宝字2年(758)に即位し、

6 年の在位ののち皇位をめぐる争いに巻き込まれ、

天平宝字8年(764)淡路島に配流されました。

このため「淡路廃帝」とも呼 ばれています。

近くには母・当麻夫人の墓もあります。

淳仁天皇が亡くなったのは、765年で

御年33歳の若さでした。

西暦765年の日本の状況は、

墾田永代私有法が、行き詰まっています。

この年には、寺院以外の墾田開発を禁止しています。

道鏡が力を入れて、

太政大臣禅師となった年でもあります。

南あわじ市の、淳仁天皇の御陵を歩きながら、

もう少しすると、この土から、

つくしも出て、春が近づいています。

遙か遠い昔の、765年の頃を、想像しようと思っても、

それほど深い知識がないので、

きっと、淳仁天皇は、もっと私のことを、

後世の人は知って欲しいと、

思っているのかもしれません。

淳仁天皇淡路御陵には、宮内庁から、

次のような通達がでています。

一、みだりに境内に立ち入らぬこと

一、魚鳥等を取らぬこと

一、竹木等を切らぬこと

いつも不思議なのは、淳仁天皇の陵の脇には、

たこ焼き屋のトラックが停まっています。

こんな所で、お店を構えなくても、

もっと別のところがあるのではないかと

、思っていましたが、注意して見ていると、

これが結構来客が続いています。

更に、離れて淳仁天皇の陵を見てみると、

その規模の大きさに驚きます。

日本史を思い出してみると、

645年には、大化の改新がありました。

この後、100年もすると、

大化の改新の理念は、大きく変わっています。

そんな時代に、淳仁天皇は、

どのような政治的な御立場にあったのか、

もう少し本を読んで、考えてみたくなります。

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2015年2月 5日(木)