神戸の大震災の時は、『異国の丘』の曲を口ずさみながら、黙々と復興に向かっていました。

大災害が起きたときには、復興のためのリーダーになれるように、普段から心の準備が必要だなと思いました。

阪神淡路大震災の1.17のつどいに行って来ました。

場所は、神戸市役所南の、東遊園地です。

三宮からすぐ近くで、歩いて行く途中、市役所のロビーに寄ってみると、
ロビーには実現しよう2016神戸サミットと、横断幕が掲げられています。

阪神淡路大震災の直後、罹災した皆さんは、神戸市役所に大勢集まっていました。

神戸市役所では、一階のホールに罹災者の止まる場所も自然発生的に出来て、
多くの方が、段ボールを敷き、毛布をかぶって寒い一日を過ごしていました。

松葉博雄も、神戸市役所の一階ホールに、しょっちゅう行っていました。

一階ホールでは、私はここにいます。という、貼り紙が沢山貼られていました。

携帯電話のない時代で、お互いの安否確認や、消息を求めて、
市民の皆さんが集まっていました。

神戸市役所は罹災した多くの皆さんに、お弁当を支給していました。

そのお弁当を求めて、多くの方が集まっていました。

今日、2015年1月17日のお天気は晴れです。20年前の1月17日も、
今日と同じようなお天気でした。

東遊園地に行ってみると、広いグランド場には、青竹を切って、竹灯籠を作り、
竹灯籠で1.17の文字を作っています。

これを上空から見ると、1.17に読めるようになっています。

竹灯籠の中には、ロウソクの火が灯っています。

そして、一つ一つの竹灯籠には、縁のある方がメッセージを書いて、
多分、亡くなった方の名前を書き込んで、追悼の灯りとしていました。

どこのテレビ局なのか、何社もテレビ局の取材が、竹灯籠を背にして続いていました。

今収録している取材は、多分今日のテレビニュースになると思います。

アナウンサーが竹灯籠の前に集まっている、市民の皆さんにイ
ンタビューをしている局もありました。

東遊園地のグランドの端には、ほとんどのテレビ局の中継車が待機しています。

今日の取材は、一日続くようで、中継車はエンジンを切ることなく、
アイドリングを続けて、車の中の暖房や、電気の確保をしています。

空からはヘリコプターの爆音が聞こえてきます。

思い出すのは、阪神大震災のあと、取材のヘリコプターの爆音に、
精神的な不安を感じたことです。

取材している方は、空から撮りたい映像を追い求めていますが、
罹災した市民の皆さんは、電気も、テレビも、不通で、
ただただヘリコプターの爆音に不安感を感じる毎日でした。

阪神大震災の後、ボランティア活動が活発になりました。

全国からボランティアが集まってきて、被災地に寝泊まりして、
多くの復興の協力をしてくれていました。

松葉博雄の家にも、会社から派遣された、ボランティアの方が、
何かお手伝い出来ることはありませんか?と、親切に声を掛けてくれた思い出があります。

毎年1.17には、東遊園地に、追悼の為に記帳所が出来ています。

記帳所に行き、松葉博雄と奥さんの2人の名前を記帳すると、
献花のための白い菊の花を、一人一輪配ってくれてました。

この、白い菊の花の部分だけを持って、追悼の場所に移動します。

東遊園地には、大きなスピーカーから、低いもの悲しい曲が、
スローテンポで流れています。

菊の花の献花は、円形の池のような水の中に投げ込みます。

投げ込んだ後は、皆さん両手を合わせて、
阪神大震災で亡くなった方の冥福を祈るかのように、黙祷をしています。

後から分かったことは、生と死は隣り合わせにあることでした。

普段、なんの疑問も持っていなかった、大きな家具のすぐ側で眠っていることが、
大震災の場合には、死に繋がった報道もありました。

三宮駅からフラワーロードをまっすぐ南に下がり、
阪神淡路大震災1.17の集いに多くの方が、追悼の気持ちを表しに来られています。

そして、追悼の気持ちを表すと、またゆっくり三宮駅の方向に向かって、
行列が続いています。

さんプラザビルが崩壊し、神戸市役所の近くの今西ビルに移転した時、
この地下道を通って、帰宅していました。あのとき、なんとなく、
口ずさんでいた歌は吉田正先生の作曲した、『異国の丘』です。

今日も暮れゆく 異国の丘に

友よ辛かろう 切なかろう

我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ

帰る日も来る 春が来る

この歌詞の中で、「我慢だ待ってろ嵐が過ぎりゃ、帰る日も来る、春が来る」の部分が、
阪神淡路大震災に重なって思えて、いつかきっと、復興が出来る日が来ると、
自分自身を鼓舞していました。

後から分かったことは、思いも掛けない、予期もしていない大災害があったときは、
その後立ち上がって、みんなを引っ張っていく、強いリーダーシップが
復興の原動力になるという事です。

大石内蔵助は、平時の時は昼行灯と言われていました。

それが、主君の仇討ちの時は、強いリーダーシップを発揮しています。

神戸市役所から三宮駅に繋がる、この地下道を毎日歩きながら、
考えていたことを思い出しました。

2015年1月17日(土)