四国霊場第十六番目の観音寺には、仏足跡があります。合掌し、礼拝した手で自分の体の悪い箇所を撫でると、罰障を滅し、諸願を成就すると言われています。
ブッダの教えは、執着から離れるように、教えています。「蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ― 蛇が脱皮して、旧い皮を捨てるようなものである。(ブッダのことば 第一 蛇の章 一、蛇 一より)」 徳島 (5)
徳島県徳島市国府町観音寺に、来ています。観音寺は、四国八十八ヶ所霊場 第十六番札所です。
観音寺は、光耀山、千手院と号し、本尊は千手観世音菩薩です。
観音寺公式ホームページに、観音寺の歴史と由来が記載されていました。
観音寺の由来 によると、「寺に伝わる宝物に『観音寺縁起』一巻がある。巻末に「享保十乙秋穀旦 南山沙門某甲謹書」の署名があり、享保10年(1725)に高野山の僧が筆写したことがわかる。
その冒頭で「南海道阿波国名東郡観音寺邑 光耀山千手院観音寺縁起」と書き出し、
観音寺が弘法大師によって創建され、大師自ら千手観音像を彫造して本尊にしたこと、
また脇侍像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだことや、
徳島藩主の蜂須賀綱矩公が新築・移転に協力したことなどの寺史が詳しく記されている。
この『縁起』とは別に、寺伝では聖武天皇(在位724〜49)が天平13年、全国68ヶ所に国分寺・国分尼に寺を創建したときに、行基菩薩に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹とされている。
弘法大師がこの地を訪ねているのは弘仁7年(816)のころで、本尊像などを彫造して再興し、現在の寺名を定めたとされている。
その後、他の阿波各地の霊場と同じように栄枯盛衰の運命を歩み、
「天正の兵火」(1573〜92)にも罹災、蜂須賀家の帰依を受けて万治2年(1659)に宥応法師によって再建され、現在に至っていると伝えられる。
大正2年ころ、両親につれられて参拝した盲目の高松伊之助さんという方が、
本尊のご利益により目が見えるようになり、松葉杖を奉納したはなしが語りつがれている。
遍路道に面した和様重層の鐘楼門は、むかしの面影を残し堂々とした風格がある。」
(以上観音寺公式ホームページより)
千手観世音の役割は、六観音の一尊としては、六道のうち餓鬼道を摂化するといわれています。
また地獄の苦悩を済度するともいい、一切衆生を済度するに、無礙の大用あることを表して諸願成就・産生平穏を司るといわれています。
ブッダの足跡がありました。仏陀入滅後、長らくインドでは、ブッダの像、そのものを、崇拝するのは、あまりにも貴すぎて、仏陀の足跡や、仏陀が教えた法輪を、車の輪の形に置き換えて、ブッダの代わりに拝んでいました。
それが、少しずつ、考えが変わってきて、ブッダの像そのものを形作り、礼拝するようになったのは、仏陀入滅の後、数百年もあとの事です。
しかし、この仏足跡の石像には、「この仏足跡に向かい合掌し、礼拝した手で、自分の体の悪い箇所を撫でると、罰障を滅し、諸願を成就すると言われています。」と、誰が言ったのか、特定しないまま、本当にそうなるのか、検証しないまま、信仰を勧めています。
不思議なのは、それを信じて、表記されている内容を、実践している人が、次々に現れることです。
ブッダが、もしこの光景をご覧になったら、どのように言われるのか、心配になります。
ブッダの教えは、「ブッダのことば」に残っています。
蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ― 蛇が脱皮して、旧い皮を捨てるようなものである。
これは、第一章の最初に出てくる、仏陀の教えです。
仏陀が目指すのは、生まれ変わって、また苦しむよりも、生まれ変わる輪廻を断つことです。
輪廻を断つためには、今の人生を、輪廻の終わりとし、再び生老病死の繰り返しから、卒業することです。
この教えを基本にすれば、ああしてほしい、こうしてほしい、ああなりたい、こうなりたいと、願ってばっかりいることは、輪廻の鎖から、卒業出来ないように思います。
それでは、どうすればいいのか? 松葉博雄には、まだまだ、煩悩を消却するための修行が続きます。
2014年9月18日(木)