淡路島の中心は洲本市です。淡路島は元々、四国の徳島藩の領内でした。淡路島は徳島県の方が良かったのでしょうか?兵庫県になった方が良かったのでしょうか?

淡路島の中心は洲本市です    淡路島は元々、四国の徳島藩の領内でした。淡路島は兵庫県になった方が良かったのでしょうか?淡路島ツアー(4)

淡路島が兵庫県に編入された原因 庚午事件

庚午事変(こうごじへん)は、明治3年(1870年)に

当時の徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、

筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。

稲田騒動(いなだそうどう)とも呼ばれる。

結果的に淡路島の帰属をめぐる重要な事件となり、

この事件の影響で淡路島は再び徳島県から離れ、兵庫県に編入された。

出典 Wikipedia

淡路島の中心は洲本市です

洲本城が緑に囲まれて、森の奥に見えています。

お城の近くの公園に行くと、洲本城はもっと身近に見られます。

洲本商店街に向かう途中、厳島神社がありました。

ひときわ目立つのは、淡路島辨財天 厳島神社 絵馬の形をした案内板です。

神社の入り口にある鳥居の向こうには、洲本の繁華街が広がっています。

これから向かうのは、あちらの方向です。

淡路島は元々、四国の徳島藩の領内でした。淡路島は徳島県の方が良かったのでしょうか?

厳島神社の境内には、庚午事変のことを書いていました。

庚午事変とは、元々淡路島は徳島藩の領地だったのにお家騒動があり、

現在は兵庫県に編入されたきっかけとなる事件のことです。

稲田騒動(いなだそうどう)とも呼ばれる事件ですが、

根底には徳島藩の家祖 蜂須賀小六とその盟友稲田家とは、

元々対等な関係が、幕藩体制になると主従関係になってしまい、

その鬱積は幕末まで続いていたようです。

今の時代でいえば、一緒に会社を作った創業者達が、段々と経営者と社員に

立場が変わり、社員に転落した側は、創業当時の対等な関係を夢見て、

社内クーデターを起こしたようなものです。

しかし、時代は明治維新の1868年以降のことで、明治の新政府から見る

と、とんでもない時代錯誤で、

この結果、淡路島は徳島県から兵庫県になってしまいました。

徳島藩のお家騒動の、喧嘩両成敗の結果を反省してみると、むやみに武力を

伴う喧嘩はするものではないなあと思います。

洲本商店街の前には、うまづめ眼科がありました。

洲本商店街に入ると、

街には 第4回 洲本城まつり 10月21日(日)のポスターがありました。

今日は木曜日です。洲本商店街は木曜日が定休日なのでしょうか。

向こうまで見渡せる限りの遠くまで、

商店街の殆どが、シャッターを閉めたお店です。

こんな、お店のシャッターが続く商店街は、以前にも小野市商店街でもありました。

これでは、地元の食べ物や特産品などのお土産を買うことが出来ません。

商店街でのお買い物は諦めて、神社の駐車場に戻り、

車で洲本の城下町をゆっくり回って見ます。

戦乱の時代に作った城下町の特徴は、敵が攻めてきた時に備え、

街並みが狭く、路地が迷路のようになっています。

昔のままの街並みは、車社会では住みにくく、使いにくくなっています。

対向車が来ると、少しゆとりのある場所で待機します。

見通しの悪い角地は減速して、急に対向車が来ても、子どもが飛び出して来

ても、急停車出来る速度で走ります。

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2012年10月4日(木)