隈 研吾の「負ける建築」では、権力と建築とは、共犯関係を結んだとしています。徳川家康は、巨大な名古屋城を公共事業とし、有力大名の財政を疲弊させました
負ける建築(隈 研吾)では、権力と建築とは、共犯関係を結んだとしています。徳川家康は、巨大な名古屋城を公共事業とし、関ヶ原の後の徳川家に帰参した有力大名の財政を疲弊させました。名古屋観光(5)
負ける建築(隈 研吾)では、権力と建築とは、共犯関係を結んだとしています。徳川家康は、巨大な名古屋城を公共事業とし、築城を手伝わさせ、有力大名の財政を疲弊させました。
名古屋城の天守閣から降りて、もう一度天守閣を振り返ると、巨大なお城のスケールが改めて分かります。
こんな大きなお城を造ったのも、徳川家康なりの戦略があったようで、それは関ヶ原の後の徳川家に帰参した有力大名に築城を手伝わさせ、財政を疲弊させることを目論んでいます。
家康は加藤清正、福島正則、前田利光、黒田長政らの西国大名を総動員して、築城工事に
当らせたのです。そのため、諸大名は全国から大きな石を集め、その石に自分の藩のマークを彫り、他の大名に盗まれないようにブランドを付けています。
今となっては徳川家康の深い戦略も、天守閣・本丸御殿跡を囲む内堀と、直線的なラインの石垣となって残っています。
空堀には、鹿が飼われています。しかも、この石垣では逃げられません。
天守閣から離れてもう一度天守閣を見ると、天守閣の屋根には対になった鯱が金色に輝いています。鯱は天守閣のお守りで、主に火事に対するお守りです。
沖縄にも家にはお守りがあって、シーサーという伝説上の獅子を屋根に置いて、悪霊から家を守っています。落雷・防火・防災が未熟な時代には、頼るのはお守りです。もちろん、火災保険も警備会社も無い時代ですから、お守りを祀って災害から逃れようという気持ちも分かります。
5月のこの時季、お城のある公園でよく催しされているのがサツキの盆栽展です。少し話しを聞いてみると、ほんの僅かな盆の土から、古木の様な枝振りを育てていくには、一本一本の枝に、水分と栄養が土から吸収される様な枝払いをしています。
サツキ盆栽は、『水遣り3年』とか、『水が命』と言われる由縁です。
帰る時も、名古屋城の大手門を通ってお城を出ました。少しずつ夕暮れになっていき、KKRホテル名古屋にチェックインします。KKRホテル名古屋は国家公務員共済組合連合会の経営するホテルです。
少し休憩をし、お風呂に入り、夕方6時を過ぎると晩ご飯の時間です。
今回は沢山の友人との懇親会なので、今夜は思い切りたくさんビールを飲みます。
今夜のビールは瓶ビールで、コップに注いで沢山の友人と差しつ差されつの飲み会です。こうなるといくら飲んだか分からなくなります。
ビールだけでなく、更に白ワイン、赤ワインと続き、焼酎も用意されていました。飲むほどに饒舌になり、舌と喉が乾くとまた飲みたくなり、飲み過ぎへの悪循環に陥ってしまいました。
2012年5月24日(木)