戦国のお城の石垣、竹田城を見ると、競争戦略を城や堀で戦うか、それとも社員の束である人的資源で戦うのか、経営戦略の方法を、何百年も繰り返しているように思えます。

竹田城に登り、思った事は、競争戦略を城や堀で戦うか、それとも社員の束である人的資源で戦うのか、経営戦略の方法を、何百年も繰り返しているように思えます。 有馬温泉から朝来市へドライブ (9)

山名宗全の戦国のお城の石垣、堀を見ると、競争戦略を城や堀で戦うか、それとも武田信玄のように、社員の束である人的資源で戦うのか、経営戦略の方法を、何百年も繰り返しているように思えます。

竹田城の駐車場で、竹の杖を借りて、急な山道も、凹凸の多い石段も、こけないように注意をして、段々本丸に向かって登りつめて来ています。

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もう、大手門は過ぎたので、竹田城の城郭の中に入っています。城郭には、視界を遮る大きな木はもうありません。

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城下町も、高速道路も、霧を生む川の蛇行も、みんな箱庭の様に見えます。

松葉博雄

雲が少し増えてきて、今にわか雨が降れば、雨よけもなく、為す術もありません。竹田城の周りを囲むいくつもの大きな山が、竹田城に対峙するように見えます。

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竹田城の作り方を想像してみれば、向こうの大きな山に、お城を築く事を想像すれば、どんなに大変だったかが分かります。

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竹田城の石垣は、山から掘り出した自然石を山頂部分にまで運び、そこで石組みをして、少しずつ形を整えて、自然の山が山城になるまで、山を加工しているのですから、人力で築城するにはさぞ大変だったことだと思います。

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戦国武将の夢は、一国一城の主を夢見ていました。一国とは、国分寺が一つの国ごとに置かれた頃の名称で、兵庫県であれば、摂津国、但馬国、播磨国、淡路国、が該当します。

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この竹田城は但馬国にあり、守護は山名宗全の時代がありました。城持ち大名になると、守る責任が出てきます。とにかく戦国時代ですから、領土を広げる為に、隣接する国同士が武力衝突を繰り返しています。

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そこで、天下統一を目指す戦国大名が現れるのも当然の成り行きで、その第一候補は織田信長でした。

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しかし残念ながら、織田信長は本能寺の変で明智光秀に斃されてしまいました。

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そしてその遺業は豊臣秀吉に引き継がれ、この竹田城も秀吉の勢力下に入り、最後の竹田城の城主は赤松広秀でしたが、鳥取の戦いで城下に大火を起こした責任で切腹させられ、1600年12月にこの竹田城も廃城になってしまいました。

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日本の戦国の世の戦いのルールは、お城が落ちたら負けでした。お城が落ちたことが、一番はっきり分かるのが、お城に火がついて、燃え尽きて落城する方法です。

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よく言われるのが、築城10年落城3日というように、お城を築くには何年もの歳月を要しても、お城が落ちるのは、それまでのまずいことが溜まりに溜まってたので、一度矛盾が露呈すると、たった数日でお城は落ちてしまいます。

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落城で多いのは、敵との内通、裏切り、謀反といった内部崩壊型です。

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領主になると、領内の徴税権が得られます。つまり、農家の作る農作物に対して、特にお米に対して、年貢米の徴発が出来ます。

次に、徴兵権も得られます。合戦の時に領内の農民を足軽として徴兵できます。徴用もあります。戦いに必要な物資を出させる事が出来ます。

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こうして見ると、あの時代に生まれたら、戦いのためには個人の自由が大幅に制限されそうです。一度、戦いに敗れると、上級武士は殺されるか、追放されるかのどちらかなので、負けない為には、一生懸命戦うのも無理がありません。

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加藤清正は、築城の名人と言われて、熊本城を始め、名古屋城、佐敷城など、多くの堅固な城を築きました。これに対して、武田信玄は、『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』と、城や石垣よりも、HRM( ヒューマン ・ リレーション ・ マネジメント )に比重を置いていました。

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こうなると、今も昔も競争戦略を物やサービスで戦うか、それとも、社員の束である人的資源で戦うのか、同じテーマで経営戦略の方法を、何百年も繰り返しています。

2012年5月10日(木)