天空の城 竹田城跡 有力戦国大名と地元大名との戦いは、今なら大手全国チェーンとご当地の地元企業との戦いのようなものです。

天空の城 竹田城跡 有力戦国大名と地元大名との戦いは、今なら大手全国チェーンとご当地の地元企業との戦いのようなものです。天空の城 竹田城跡の冬期入城は、禁止されました。

朝来市は、平成26年12月11日(水)から平成27年3月19日(水)までの間、竹田城の入城を全面禁止にしました。有馬温泉から朝来市へドライブ (8)

竹田城の歴史を読むと、

戦乱の世の有力戦国大名と地元大名との戦いのようです。

今なら大手全国チェーンと、

ご当地の地元企業との戦いのようなものです。

竹田城跡を、以前から、

いつか訪ねてみたいと思っていた竹田城に来ました。

竹田城跡は雲海で有名です。

お城が雲の中から顔を出している様な、

幻想的な写真を見たことがあります。

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大町藤公園を出て、これから竹田城に向かいます。

竹田城跡はJR播但線竹田駅の近くにあり、

今も城下町のなごりが残っています。

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竹田城跡は日本のマチュピチュとも言われています。

また気象条件が合えば、城跡を取り囲むように濃い霧が発生し、

まるで雲海に浮かぶように見える姿から、

「天空の城」と呼ばれるようになりました。

平成18年に「日本100名城」に選定され、

平成24年には「恋人の聖地」として認定されました。

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竹田城は、市町村合併により、朝来市になっています。

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竹田城への登山口は、あまり多くない誘導看板ですが、

やっと見つけて、これから竹田城跡に登ります。

先行きを暗示するような、暗い文章が気になります。

何を書いてあるかといえば、道幅が狭いので、

車の対向車に注意とのことです。

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ここから山道を登るような案内板がありました。

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六甲山にも脇道があり、脇道は狭くて、

対向車に出会うと、

どのようにしてやり過ごそうかと困る時があります。

暗い予想は現実となり、狭い狭い道で、

下りの車と、対向してしまいました。

ここで判断を誤ると、

ずるずるっと左の路肩は、谷底に続いています。

一旦、車を降りて、

どのくらい左側の道幅があるのか目測してみました。

幸いなのは、後続車の運転する人が降りて来て、

左路肩を見ながら誘導してくれたので、

谷底に落ちなくてすみました。

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竹田城に上る道は、思ったより、

車で上がるには、危ない道でした。

途中に駐車場があり、ここから先は徒歩になります。

以前は、車も入れていたようで、

ガードレールが設置されているものの、

ガードレールには擦り傷がついていたり、

所々壊されていたりします。

右側の崖は山の脇がえぐられている、

恐ろしいような光景も残っています。

これでは車での登城は、禁止した方が安全です。

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竹田城は山城です。

元々の山を削り、石垣を築き、山頂部分を天守閣にしています。

上に上がれば、段々と下の城下町が見えてきます。 **

途中の新緑の中に、

小さな可愛らしい花が咲いていました。

一つ一つの花を見つけては、写真に写し、

犬の散歩の様に、

あちらこちらに立ち止まって進んでいます。

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竹田城跡への上り道を、かなり登り詰めて、

やっと石垣が見えてきました。

案内板によると、この石垣の積み方は、

築城方法としては、自然の石を積み重ねていく、

穴太(あのう)積みという積み方です。

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竹田城跡の玄関である大手門の前に着いたときは、

標高は300mを越えて、城下を見ると、

大手門はかなり高い山にあることが分かります。

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竹田城跡も、お城に登っている人は、中高年以上の方が中心です。

お城の平坦な敷地にも、

咲き終えた桜が、新緑を張り巡らせています。

このお城に咲く桜も、きっと立派な桜だったと想像します。

竹田城は、日本の名城100選に選ばれている名城のひとつです**

竹田城に向かって、行き交う人が言うことには、

どうやって昔の時代に、こんな山の上に、

大きな重い石を運んだのだろう?と、

いぶかしがっています。

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竹田城跡の山頂部分になると、

視界を隠していた山の樹木が途絶え、

視界が広がってきました。

城下には川が流れ、

山と山の合間に城下町が広がっている様子が分かります。

真下に、JR播但線の竹田駅が見えます。

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竹田城は虎伏山ともいわれ、

遺構の美しさでも有名です。

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戦国の時代には、

ここ竹田城は、畿内・山陰・中国の境界に接し、

戦国大名の赤松氏と、山名氏の豪族が、

絶えず抗争を繰り返していた地域です。

赤松満祐は足利義教将軍を殺し、いわゆる嘉吉の乱を起こした武将です

一方の山名宗全は、応仁の乱の西軍の大将で、

どちらも歴史に名を残す戦国武将です。

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山名氏は、6分の1殿ともいわれ、

日本六十余州の6分の1を領する大大名でした。

こんな強力な戦国大名が近くにいたら、

隣接の戦国大名はたまりません。

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今なら、大手全国チェーンに対向する、

ご当地の地域企業の戦いのようなものです。

竹田城といえば、雲海に包まれた古城ですが、

今日はお天気の良い日で、霧は全く発生していません。

霧に包まれて有名なのは北海道の摩周湖ですが、

霧に包まれて幻想的なのは竹田城です。

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山城なので、石積みは、近くの山から調達した、

あり合わせの石をうまく組み合わせて、

それでも崩れないように、所々の力のかかる所には、

小さな石を組み合わせて、力の分散を図っています。

天空の城 竹田城に登り、思った事は、競争戦略を城や堀で戦うか、それとも社員の束である人的資源で戦うのか、経営戦略の方法を、何百年も繰り返しているように思えます。 

有馬温泉から朝来市へドライブ (9)

山名宗全の戦国のお城の石垣、

堀を見ると、競争戦略を城や堀で戦うか、

それとも武田信玄のように、

社員の束である人的資源で戦うのか、

経営戦略の方法を、何百年も繰り返しているように思えます。

竹田城の駐車場で、竹の杖を借りて、急な山道も、

凹凸の多い石段も、こけないように注意をして、

段々本丸に向かって登りつめて来ています。

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もう、大手門は過ぎたので、竹田城の城郭の中に入っています。

城郭には、視界を遮る大きな木はもうありません。

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城下町も、高速道路も、霧を生む川の蛇行も、

みんな箱庭の様に見えます。

松葉博雄

雲が少し増えてきて、今にわか雨が降れば、

雨よけもなく、為す術もありません。

竹田城の周りを囲むいくつもの大きな山が、

竹田城に対峙するように見えます。

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竹田城の作り方を想像してみれば、向こうの大きな山に、

お城を築く事を想像すれば、

どんなに大変だったかが分かります。

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竹田城の石垣は、

山から掘り出した自然石を山頂部分にまで運び、

そこで石組みをして、少しずつ形を整えて、

自然の山が山城になるまで、山を加工しているのですから、

人力で築城するにはさぞ大変だったことだと思います。

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戦国武将の夢は、一国一城の主を夢見ていました。

一国とは、国分寺が一つの国ごとに置かれた頃の名称で、

兵庫県であれば、摂津国、但馬国、播磨国、淡路国が該当します。

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この竹田城は但馬国にあり、

守護は山名宗全の時代がありました。

城持ち大名になると、守る責任が出てきます。

とにかく戦国時代ですから、領土を広げる為に、

隣接する国同士が武力衝突を繰り返しています。

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そこで、天下統一を目指す戦国大名が現れるのも当然の成り行きで、

その第一候補は織田信長でした。

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しかし残念ながら、

織田信長は本能寺の変で明智光秀に斃されてしまいました。

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そしてその遺業は豊臣秀吉に引き継がれ、

この竹田城も秀吉の勢力下に入り、

最後の竹田城の城主は赤松広秀でした。

鳥取の戦いで城下に大火を起こした責任で切腹させられ、

1600年12月にこの竹田城も廃城になってしまいました。

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日本の戦国の世の戦いのルールは、

お城が落ちたら負けでした。

お城が落ちたことが、一番はっきり分かるのが、

お城に火がついて、燃え尽きて落城する方法です。

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よく言われるのが、築城10年落城3日というように、

お城を築くには何年もの歳月を要しても、お城が落ちるのは、

それまでのまずいことが溜まりに溜まってたので、

一度矛盾が露呈すると、

たった数日でお城は落ちてしまいます。

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落城で多いのは、敵との内通、

裏切り、謀反といった内部崩壊型です。

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領主になると、領内の徴税権が得られます。

つまり、農家の作る農作物に対して、

特にお米に対して、年貢米の徴発が出来ます。

次に、徴兵権も得られます。

合戦の時に領内の農民を足軽として徴兵できます。

徴用もあります。戦いに必要な物資を出させる事が出来ます。

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こうして見ると、あの時代に生まれたら、

戦いのためには個人の自由が大幅に制限されそうです。

一度、戦いに敗れると、上級武士は殺されるか、

追放されるかのどちらかなので、

負けない為には、一生懸命戦うのも無理がありません。

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加藤清正は、築城の名人と言われて、

熊本城を始め、名古屋城、佐敷城など、

多くの堅固な城を築きました。

これに対して、武田信玄は、

『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』と、

城や石垣よりも、

HRM( ヒューマン ・ リレーション ・ マネジメント )に

比重を置いていました。

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こうなると、今も昔も競争戦略を物やサービスで戦うか、

それとも、社員の束である人的資源で戦うのか、

同じテーマで経営戦略の方法を、

何百年も繰り返しています。

天空の城 喧嘩の仲直りならぬ戦国の合戦で、討ち死にした英霊をお祀りしています。戦国時代の山名氏と赤松氏が現代の和平をしています。 

有馬温泉から朝来市へドライブ (10)

喧嘩の仲直りならぬ戦国の合戦で、

討ち死にした英霊をお祀りしています。

戦国時代の山名氏と赤松氏が現代の和平をしています。

竹田城の天守閣を降りて、また車に戻ります。

竹田城は、近くに生野銀山を控えているので、

生野銀山を支配するには、

竹田城を領有することが、

現代で言えば、レアメタルを確保するためには、

レアメタルの集積地を支配することと同じです。

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新緑に、虎伏山の木々が花を咲かせています。

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駐車場に戻る階段は、

これから竹田城の本丸に向かう人と、すれ違う階段です。

竹杖を借りて行こうか、それとも竹杖を借りないで登ろうかと、

老夫婦が迷っています。

それを聞いて、松葉博雄の奥さんは、

「これ使って下さい」と、返す寸前の竹杖を渡しました。

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駐車場の奥に、

山名氏と赤松氏の両軍陣没諸霊供養の碑が出来ています。

読んでみると、およそ400年前まで、

応仁の乱から100年以上も、

山名氏と赤松氏は敵対して戦闘を繰り返しました。

その為に亡くなった沢山の人の霊を祀る為に、

現代の山名氏と赤松氏が相談して建てた鎮魂の碑です。

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山名氏は応仁の乱で有名、赤松氏は嘉吉の乱で有名で、

歴史に名を残しています。

山名氏と赤松氏の末裔が、平成2年5月26日に、

500年前の嘉吉の乱に始まる、

山名氏と赤松氏の両陣の慰霊祭を行い宝塔を建てました。

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駐車場には、小型のバスがあの狭い道を登り切ってきています。

もし、下りの途中でこんなバスと遭遇し、

どちらかが道を譲らなければ進めなくなったらどうしようかと、

悪い予想が湧いてきました。

沢山乗っている車対、二人の車が相まみえると、

なんとなく力負けして、バスに道を譲るために、

二人乗りの車は、ギリギリまで路肩に寄せるか、

対向車をやり過ごすことができる場所まで

バックで狭い道を登ることになります。

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そのとき、ハンドル操作を誤って、

ずるずるっと谷底に落ちていく、

そんな目には遭いたくありません。

幸いな事に、祈りが天に通じたのか、

下りの道では、対向車と狭い道で、

大きなバスと曲がり道で出会う事はありませんでした。

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竹田城を後にすると、次はJR竹田駅です。

JR竹田駅は、随分とクラシックな駅を復元しています。

駅舎には、わだやま観光案内所が併設されています。

こんな所に案内所があるとは、

まず、最初にこの案内所に来れば、

次に何処に行けばいいか分かったのにと、順逆になっています。

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受付の女性に、写真を撮ってもいいですか?

と許可をもらって、案内所の中を写しました。

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立体的にミニチュアサイズに作った、

竹田城のお城の配置を見ると、

先ほど歩いた石垣や、

矢倉の配置が戦国時代さながらに蘇ってきました。

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竹田城を有名にしたのは、霧に浮かぶ竹田城です。

実際に霧に包まれた竹田城の、

雲海の写真が飾られていました。

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もし、こんな雲海に浮かぶ竹田城の写真を、

自分のカメラで写そうと思ったら、

霧が出そうな時季に宿でもとって、

朝早くから竹田城の向いの山に登って、

霧が晴れるまでのたった僅かの合間にしか、

シャッターチャンスはありません。

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そんな事が出来るのも、やはり趣味というか、

写真が好きだからこそ竹田城の雲海が撮れるのです。

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JR竹田駅は、無人駅です。

少し身を乗り出せば、ホームに出られます。

プラットホームに出て、周囲の写真を写してみます。

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向いにはお寺のような、

お屋敷のような白壁が見えます。

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車で来なくても、JRを使えば、竹田城のすぐ麓まで、

城下町の散歩も出来、ビールも飲めます。

ただし、一日の列車の本数は限られています。

5月10日(木)

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