歴史の深い理由:歴史は深い理由を持っているものです。岡山倉敷の歴史はどうでしょうか。

歴史の深い理由:歴史は深い理由を持っているものです。岡山笹倉は、藩主が能を舞って領民に見せる住民サービスをしていたという歴史が残っています。その理由とは何でしょうか?岡山倉敷歴史の街散策(2)

歴史の多くには深い理由が隠されています。歴史の深い理由を知っているのと知らないとでは大きな差があるのではないでしょうか。

延養亭に続いて建てられている能舞台を見ます。能舞台の周りは、池になっていて、たくさんの蓮の葉が浮かんでいます。花葉の池です。

今は、蓮の花の開花時期ではないので、花は見られませんでした。蓮は、昭和30年ごろに移植されたそうです。

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池田綱政が御庭を造り、能を自ら演じて、領民に見せました。では、なぜこんな住民サービスをするようになったのでしょうか?

松葉博雄が考えるに、まず、参勤交代で諸大名が地方から江戸に集まり、江戸城の溜まりの間で、談話サロンができます。

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地方から来た大名達は、地方方言ばかりで言葉が通じず、会話に苦労したと言われています。そこで、共通の言葉として能楽の言葉で会話が始まりました。

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幕府の策とは、諸大名の間で、お国言葉が違うこと、趣味が違う事、政治の話をしてもらったら困ることに、能を勧めました。

同じ趣味と、同じ言葉を持つことで、競い合い、大名にお金を使わせて、戦熱心にならないようにすることで、諸大名を平和ぼけにさせることです。

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高尚な能舞台で能を舞うとか、茶道でお茶をたてるとか、とても平和的な趣味を推奨し、自らも実践しました。将軍様が能を舞えば、諸大名も将軍様に習って能の練習をし、その発表の舞台も必要になってきます。それが、大名家の能舞台です。

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現代では、企業の社長さんがゴルフが好きなら、役員や従業員の皆さんもゴルフを始め、社長さんが囲碁が好きなら、会社中で囲碁を始めるのと似ています。

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そうなると、能の狂言師は、先生になって来ます。一流の先生は、各地の有力大名の取り合いになります。

赤穂浪士の忠臣蔵でも、吉良上野介の職務上の役割は、大名に京都風の文化を教える講師の先生でした。講師になると、偉くなるのです。

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戦国時代が長く続き、天下統一がやっとできて、それ以降は、新たな戦国の世を造らないで済むのなら、大名家の坊ちゃまに能に専念して貰うのも、領民にとってみれば、納得できることかもしれません。

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後楽園の庭に大きな石があります。説明を読んでみると、90数個に花崗岩を割り、それを運んで元の形に組み直したのだそうです。

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見てみると、確かに組まれた跡があります。組んだ石の間に、草の種が入り込んでか、石から植物が生えています。今ならジグソーパズルか、モザイクか、高尚な遊びです。

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後楽園の現代の住民サービスでは、後楽園で結婚式を挙げることができます。昔の殿様は、今は、岡山県知事です。岡山県知事が、住民サービスとして後楽園で結婚式をしてもいいですよと、いうことになりました。

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白無垢を着た花嫁が見えます。

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ボランティアのガイドさんの説明に、1つ1つ頷いて、雨に濡れた石畳の上を歩きます。近くで見ても、離れて見ても、雨に洗われた芝生が、美しく輝いています。この雨は、放射能を含んでいません。濡れても大丈夫です。

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別のボランティアのガイドさんが案内している一行とすれ違い、そちらの話を聞いていると、「岡山に来たら、後楽園に来たら、この石灯籠を見て帰らんといけん」と、話していました。

ちょうど、兼六園にも、兼六園を代表する石灯籠があります。なぜ、この石灯籠が後楽園を代表するほど有名なのでしょうか?

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調べてみると、この石灯籠は、上中下のすべての部分が、作られた時代が違うのだそうです。一番上が一番古い、江戸時代前期の豊島石でできています。

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後楽園の中心にある大きな池は、沢の池です。向こうに小さく見える小さな建物は、寒翠細響軒(かんすいさいきょうけん)です。唯心山と沢の池を、反対側から見ることができる場所になります。

 

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このあたりの緑の芝生は、池田綱政が延養亭を建てたときは、田園でした。しかし、藩の財政難で、経費削減のため、田んぼを埋め立て芝生を植え、今のような広い芝生に変わったそうです。

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雨が上がりました。次はあちらの丘へ登ってみます。

写真の方が、ボランティアのガイドさんです。大勢の方から質問を受けるので、段々と知識は増え、関連する情報も集まり、ボランティアながら、教えることは学ぶことと、通じています。

 

2011年5月11日(水)