淳仁天皇(第47代天皇)陵は、淡路島でただひとつの天皇陵です。『陵印は古市陵墓監区事務所で保管しております

淳仁天皇(第47代天皇)陵は、淡路島でただひとつの天皇陵です。淳仁天皇は、大化の改新の頃の、天智天皇(38代)、 天武天皇(40代)から、孫の代にあたります。 天武天皇の皇子 舎人親王の七男として生まれました。淳仁天皇の陵印は、大阪府羽曳野市の古市陵墓監区事務所にあります。桜と淳仁天皇陵を訪ねて(5)

淡路島に、ただひとつ天皇陵があります。

淡路島の天皇陵は、淳仁天皇陵です。

賀集八幡の桜を見た後は、すぐ近くにある、

淳仁天皇陵へやってきました。

淳仁天皇は、第47代天皇です。

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淳仁天皇は、大化の改新の頃の、天智天皇(38代)、

天武天皇(40代)から、孫の代にあたります。

天武天皇の皇子 舎人親王の七男として生まれました。

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大海人皇子、天智天皇、額田王(ぬかたのおおきみ)と言えば、

あの恋の歌、

「あかねさす紫野行き 標野行き 野守は見ずや君が袖振る」を思い出します。

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淳仁天皇陵だけで、思い起こすことは難しいのですが、

キーワードに藤原仲麻呂(恵美押勝)や弓削道鏡が出てくれば、

政治的背景がなんとなく分かってきます。

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淳仁天皇は、 恵美押勝の乱で

孝謙上皇に対する謀反を理由に天皇の座を降ろされ、

淡路に幽閉されました。

幽閉された淳仁天皇は、1年後逃亡を計ったものの捕らえられ、

その翌日に33歳で亡くなりました。

さぞ無念だったことだと思います。

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永らく、淳仁天皇は淡路の廃帝と呼ばれ、

無念残念の期間が長くありましたが、

その後、明治天皇により淳仁天皇と追号されました。

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淳仁天皇陵の外周を、

春のうららかなぽかぽか陽気の中で、歩いてみました。

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堺市にある仁徳天皇陵のような、

前方後円墳を予想していましたが、8世紀の中旬には、

もう前方後円墳は、流行らなくなったのでしょうか?

鍵型の前方後円墳の形をしていません。

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堀は、空堀になり、外周の土手から容易に淳仁天皇陵に登ることができます。

しかし、宮内庁は、ちゃんと柵をして侵入を防いでいます。

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空堀に沿って堤を歩いて進むと、

その先が溜池のような農業用のような池があり、

そこからは淳仁天皇陵に沿って、

空堀の堤を歩くようにはできません。

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淳仁天皇陵と溜池は、接する面も直線的に池の堤が作られています。

元々の淳仁天皇が、池のために切り取られているようにも見えます。

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淳仁天皇陵の周りは、

淡路の特産であるタマネギ畑が広がっています。

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池に行く手を阻まれて、もう一度淳仁天皇陵の神宮に戻り、

小さな番小屋のような壁に何か貼ってあるものを見つけました。

読んでみると、『陵印は、左記の古市陵墓監区事務所で保管しております

 記 宮内庁書陵部 古市陵墓監区事務所 

大阪府羽曳野市誉田6-11-3』と表記されています。

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陵印とはなんでしょう?

お寺の朱印みたいなもののようです。

宮内庁は、5つの陵墓管区事務所(畝傍・古市・桃山・月輪・多摩)

によって管理していて、

淳仁天皇の陵印は宮内庁天皇陵ホームページで閲覧できます。

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淳仁天皇陵の空堀に続く堤を歩いていると、

淳仁天皇陵側からは、野鳥の声が絶え間なく聞こえてきます。

野鳥にとってみると、人が入ってこない、安全な森のようです。

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宮内庁が守る淳仁天皇陵は、正面に鳥居が建ち、

周囲の生け垣はスッキリと剪定され、

天皇陵として清楚ながらも荘厳な雰囲気を醸し出しています。

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2011年3月31日(木)