前方後円墳 「前方後円墳の設計・整地」第2話
前方後円墳 「前方後円墳の設計・整地」第2話
山陽本線の敷設工事とその後の蒸気機関車の往来により、
屋敷跡は廃墟になりました。
その後は荒れ果てていく中で長い年月が経過しました。
何年もかけて、いろいろと関係者に何度か面談していくうちに、
この辺りに住んでいる建築家の紹介を受ける機会がありました。
この建築家にお会いして、構想をお話しすることで、
具体的なモニュメントの建築に向けて話が一挙に進展していきました。
現地に行き、地元の方にモニュメントの建築について相談してみました。
話が上手く行くときはこんなものかなと思いました。
今まで何年もかけて少しずつ進めていたことが、
霧が晴れるように一挙に目の前が開けてきました。
この建築家の先生にお話をしたことで、
障害となることが具体的に分かり、建築に向けて大きく前進しました。
国会議事堂の二階以上の外壁と衆参両院玄関の大きな柱石は、
この辺りの山から産出される石で作られたそうです。
建築家の先生のネットワークで建築会社、造園業者などの推薦がありました。
この辺りには今でも良質の石材が出ることが分かりました。
この石材を使って、前方後円墳を造ることにしました。
(国会議事堂の使用石材について、詳しくは こちら)
沖縄に行くと、沖縄では内地と違ったお墓の作り方をしています。
沖縄の新聞には、一番下の段にお葬式の案内が時々広告として出ています。
注意してみていると、親戚のかなり広がった縁の方まで詳しく記載されています。
実際の古いお墓を見ても、かなり大きな規模で造られていて、
中に地下室があり、何代も前からの一門の方々が祭られているとのことです。
年に一度お墓の敷地 の中で一族が集まり、お弁当を用意し、
お酒を持ち寄り、祖先の前で現在の子孫達が集まり、
交歓会のようなお参りをするそうです。
建築家の先生は「碌工房」を主宰する六條均先生で、
六條先生の推薦により、施工は「日進建設工業株式会社」となりました。
石材を担当するのは「庭園ウシガキ」に決まりました。
これまでの参考資料を元に具体的に設計を六條先生にお願いして、設計が始まりました。
六條先生は「この仕事は自分自身にとっても、
最も創作欲の掻き立てられるもの」と認識され、全体設計に取り組まれました。
数ヶ月の間に何度か打合せを行ない、
韓国、沖縄、日本の古くからある文化の要素を取り入れ、
平成の現代にアレンジした「前方後円墳」の設計を完成させるに至りました。