メニコンの塚本弘昭さんと、アルファーコーポレーションの槇隆司さんの遠くからの支援に感激しました。阪神淡路大震災後24日目~26日目(№19)

 SOGO神戸店の取り壊しが始まりました。


「制服着用を再開 」「取り壊し工事が始まった神戸そごう 」

昨日の議論の結果、本日の木曜日は定休日となりました。

有馬での避難生活も少しずつ慣れて、周りを見回すゆとりも出てきました。

有馬の温泉街は四方を山に囲まれた狭間にあります。

余震による、ドーンという山の地響きが山びこのように時々聞こえてきます。

これが、不気味な恐怖感を呼び起こすことがありました。

またあの地震が起きるのではないかという不安です。


 

今日は長男が寮から帰ってきました。家で家族で少しくつろぐことができました。

長男にも次女にも進学の大事な時期にも関わらず、あまり何も相談に乗ってあげられなく、
かまっていないので、すまないと思っていました。

休みを利用して業界の情報を集めに、有力者のお家にお見舞いがてらお伺いしました。

震災復興が優先されるので、これまでの業界の自粛事項については、やや緩くなりそうです。

我が社も復興を進めるためには、やや思い切ったマーケティング政策を取ろうと思いました。

 


復興支援をするメーカー側から見ると、今後数年のうちに神戸の市場に秩序が
戻ってきたとき、あの時に誰を中心にして復興支援をしたかを問われる時が来ると
思います。

その時に対して、説明できる状態で復興支援をしておかないと、後々こんなはずでは
なかったと後悔しないように考えていると思います。

阪神淡路大震災24日目:1995年2月9日(木)


 

システム企画の岡本社長のおかげで、パソコンも元気に動き始めました。

まず、シール出しから始まります。コンピューターのプリンターが元気よく、
規則正しい動きと音を出し、ラベルに顧客の住所、氏名を次から次へと打ち出してくれて
います。

そばで見ていると、マシンといえどもとても頼もしい社員のように思いました。

このDMは、一応検索をして、優先順位は今回の大震災の被害が大きい地区を優先的に
検索してみました。

きっと罹災した我が社の顧客の方は、困っているはずです。

往復はがきなので、一人一人の要望を知ることができたら、私たちも何をしたらよいのかがわかるはずです。

これまでのように平時の時であれば、DMはがきの印刷とシール貼り、
そして投函の作業は簡単に人手を集め、2、3日もあれば一気にできていたことですが、
震災という非常時にはパソコンが止まるというハプニングのほかに、
シールを購入することも数日かかりました。

ラベルシールも備蓄があれば、即対応できたのですが、いつでも買えると思っていたので、
何万枚ものシールは手当てをしなければありませんでした。

入手のための一番のネックとなったのは、配送です。

交通機関の混乱があり、なかなか集配と配荷の流通が回復していません。

シールは印刷できた順に、どんどんDMはがきに貼りつけ、近くの郵便ポストに
投函していきました。

すでに一部の先発のはがきは届いている様子なので、仮店舗への移動の案内は
できているようで、今日も少しずつ来院、来客がありました。

阪神淡路大震災25日目:1995年2月10日(金)


今日は建国記念日です。

我が社も今日はお休みです。

有馬から岡本の自宅に生活用品を取りに戻ってみました。

郵便ポストには何通かの手紙が入っていました。その中に訃報がありました。

 
「家財道具が散乱したままの自宅の様子」

12月に私の古くからの知り合いの方のお父さんが癌で亡くなりました。

年始・年末があり、その後の震災のために訃報が届くまでに時間がかなり経過しています。

今日この訃報を知り、急ぎお悔やみに行くことにしました。

知人のお父さんとは、その家の自宅でよくお酒を一緒にいただきました。

とても懐かしく思い、かつ寂しく思います。

自宅に戻ると電話回線は復旧していたので、留守電に現在の状況をテープで録音しておきました。

きっと、たくさんの友人・知人から安否の確認のお電話があったことと思います。

これまでは、電話回線が切れていたことと、その後は自宅に住めない状態だったので、
これまで誰からお電話をいただいたのか、わかりませんでした。

何度もお電話をいただいた方にはお詫びいたします。


久しぶりに自宅に戻ってみて、電話や手紙によりその後の通信が回復したことが収穫でした。

その中でも、とても感動したことが2つありました。

「子供部屋の様子」

1つは、自宅のポストに名刺が入っていました。

名刺のお名前はメニコンの重役である塚本弘昭さんです。

名刺の裏に、今回の震災に対してのお見舞いの言葉が書き添えられていました。

日付は震災の17日から数えてわずか2日後のことでした。

はるばる名古屋から、わざわざお見舞いに訪ねてきていただいたようです。

しかし、自宅は半壊状態なので、ここには私が住んでいませんでしたので、
塚本弘昭さんにとってみると、無駄足になったようです。

わざわざ遠くから駆けつけていただいたことにとても深い感謝の気持ちが湧き上がってきました。

きっと、西宮からは歩いて東灘まで道を探し地図を見て、やっと私の家を見つけた時には、
きっと手を取り合って元気なことを喜んでくれたことと想像します。

しかし、残念な気持ちで折り返し名古屋へ帰られたことと思います。

電話連絡も取れなくて、誰にも人づてができない、情報が孤立していることとは
恐ろしいことだと思いました。

【イメージ画像】
出典:アサヒグラフ緊急増刊号

さっそく塚本弘昭さんには電話をして、わざわざお見舞いに来ていただいたことの
感謝の気持ちを表しました。

何か支援になるものも持参していただいたことのようでしたが、持ってきた物を
どこに置いておけば私に無事に伝わるかもわからない状態でした。

もう1つは、槇隆司さんも自宅に支援物資をリュックに背負って我が家に
訪ねてきてくれたようです。

これは、ご近所の人から連絡がありました。

槇隆司さんは水と食べ物を持ってきてくれました。

しかし、私が不在なので、ご近所の方にこの水と食べ物を差し上げました。

ご近所の方はとても助かったと、私にお礼の言葉がありました。

水は水道が止まった時からとても貴重品でした。

それをリュックに背負い、線路を歩き、大阪から東灘までわざわざ支援に
来ていただいたことを感謝いたしました。

この2人のことは、自宅に戻って初めてわかったことでした。

特に、槇隆司さんはその後のさんプラザでの移転のための応援に来ていただいて
お会いしている時にも、彼からこのような自宅へまでわざわざ水と食べ物を届けていただいていたことを言われませんでした。

私なら、会ったらすぐに言いそうな話しの内容なのですが、槇隆司さんの親切と
奥ゆかしさにいっそう感動しました。

阪神淡路大震災26日目:1995年2月11日(土) 建国記念日のため休日


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