本部半島のヤンバルの森林の中に、礼拝所を見つけました。礼拝所から出てくる霊気が、何かを感じさせたのです。
本部半島のヤンバルの森林の中に、礼拝所を見つけました。礼拝所から出てくる霊気が、何かを感じさせたのです。八重岳から羽地湾に向かう途中、ヤンバルの自然が残る、亜熱帯植物が自生する場所に行き着きました。 第150回沖縄訪問(4)
ヤンバルの森林の中に、礼拝所を見つけました。
片山正喜さんが運転する、おまかせドライブになっていました。
おまかせドライブと言っても、松葉博雄からの注文があります。
それは、出来るだけ、昔の沖縄が少しでも残っている、緑の濃い場所です。
注文通り、人里離れた、亜熱帯植物が茂る、
まるで植物園の温室のような場所に来ました。
辺りの木を見ると、木の幹には、木に寄生するシダが茂っています。
周りでは、小鳥の声が聞こえて、その小鳥も、神戸で聞こえるような、
雀の鳴き声ではありません。甲高い、野鳥の声です。
昔、沖縄がまだ開発されていない頃は、
沖縄全島にこのような植物が生い茂り、
小鳥の楽園のような島だったと思います。
向こうに見える背の高い木は、
ハワイでも、ニューカレドニアでも見た木で、
大航海時代の時には、帆船の柱が嵐で折れた時には、
この木を伐採して、船のマストに使ったと聞きました。
なにやら、少し霊気を感じて、
片山正喜さんと霊気を求めて、奥に進んでみます。
5月になると、ハブが出てくる危険性があります。
今の1月の気温なら、少々草深い奥の方に入り込んで、
ハブに噛まれる危険性はありません。
それで、安心して、進んで行きます。
見つけたのは、大きな岩の下の部分に、
自然の形で出来たくぼみがあり、
そのくぼみを利用した、礼拝所がありました。
この礼拝所から出てくる霊気が、
松葉博雄に何かを感じさせたのです。
周りは、大井川という川で、その川の底の部分に、礼拝所がありました。
場所を、片山正喜さんのスマートフォンで確認すると、
今帰仁の近くであることがわかりました。
礼拝所に上り、帽子を脱いで、跪いて、この地で、
土地の人から長らく敬われていた神に、礼拝しました。
しばらくヤンバルの植物と木の発する森林浴で、
気持ちをリフレッシュ出来ました。
大井川から、さらにドライブが続きます。
行く手に、湧川案内板がありました。
そこには湧川集落の概要が書かれていました。
「湧川は今帰仁村の東側に位置し、1738年に創設されたムラである。羽地内海に面し、内海
にはヤガンナ島とサガヤ島が浮かぶ。」と書かれています。
このあたりには、京都の嵐山と同じ名前の、嵐山があります。
ここから、嵐山からの眺めはとてもいいのです。
資料を見つけて、読んでみます。資料には、
「海岸に塩田跡の石積みが残っている。ムラ内には、
御嶽や神アサギ、新里ヤーなどの拝所がある。
豊年祭には、棒術や路次楽(県指定文化財)などが行われる。
湧川小学校があり、一区一校であった(平成22年に天底小学校と統合)。」
と記載されています。
そして、湧川の路次楽(わくがわのろじがく)の説明がありました。
路次楽は元来中国のもので、
王様の道行きの「さきぶれ」だったとそうです。
それが今から約480年前、尚真王時代(1522年)明国の世宗皇帝即位慶賀使として、
中国入りした、澤岻親方盛里が、皇帝の行列で路次楽の吹奏を見聞し、
その勇壮華麗さに感動し、彼の地で習いおぼえて持ち帰ったと書かれています。
湧川には、今から約200年前に與儀家先祖、
與儀銀太郎が湧川に住み、哨吶の音楽を初めて村芝居に採り入れ、
好評を得、また村人達にも教え広めるようになったそうです。
記録では、湧川の路次楽は、
戦時中、豪の中で大事に保管され、完全な姿で残った。
路次楽の芸能については子孫である與儀家が
哨吶の楽器制作方法や奏法などを代々受け継いでいる。
(田園空間整備事業 今帰仁村)
松葉博雄と、奥さんと、片山正喜さんの3人で車を降りて、
湧川地区を歩いてみました。
沖縄に水道がなかった頃、どこの集落も、生活水は自然水に頼っていました。
雨水を溜める、井戸を掘る、山から染み出る水を利用するなどの方法で、
水があるところに人が集まるというのが、集落の始まりです。
土地の人に尋ねて、辿り着いた場所は、
水道がなかった時代の水汲み場です。
今となっては飲めない水も、水道のない時代は、
この水汲み場に、集落の命が掛かっていたようです。
サトウキビを刈り取って、束にしている畑がありました。
サトウキビを刈り取るのも、大変な仕事です。
もちろん、大規模農場なら、機械を使いますが、
小さなサトウキビ畑は、人手で刈り取っています。
いつの間にか、車は海に出てきました。
羽地湾のようです。雲がどんよりして、海は青く光っていません。
なんとなく、寒々しい海に見えてきます。
2014年1月22日(木)