首里城は焼失してもう見えません。焼失前の首里城の周りを歩いてみましょう。
首里城は焼失してもう見えません。焼失前の首里城の周りを歩いてみましょう。首里城の周りを歩いてみましょう。日本百選の道が残っています。第134回沖縄訪問(8)
首里城が消失する前の首里城です。
王宮らしい、荘厳さが漂う素晴らしい王宮でした。
消失するとは、実にもったいないことです。
首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、
沖縄県那覇市首里金城町にあります。
かつて海外貿易の拠点であった
那覇港を見下ろす丘陵地にあったグスク(御城)の城趾です。
現在は国営沖縄記念公園の首里城地区
(通称・首里城公園)として都市公園となっています。
出典:ウィキペディア(Wikipedia)
写真出典 ウィキペディア(Wikipedia)
首里城は焼失しても首里城の周りは残っています
首里城を取り巻く古道を歩いてみましょう。
アカギの森を歩いてみましょう。
この選択はとてもよかったです。
ここから更に道が続いています。この道を歩いてみましょう。
よくこれだけの場所が、
太平洋戦争の時に空爆を免れて残っているなと思います。

全体としては狭い地区ですが、
立派なアカギが残ってクワズイモが生えて小さな密林を形成しています。
ここにいると、昔の王宮に向かう役人たちが、今も歩いてそうな雰囲気です。

ここは天然記念物に指定されている首里金城のの大アカギと書かれていました。

この大アカギの樹幹には、ホウビカンジュ、
ハブカズラ、シマオオタニワタリ、クワズイモ、
ハマイヌビワなどが着生しています。

上から、上空から見ると、
この地域がどのくらいの広さなのか分かると思いますが、
この地を歩いてみると、小さな密林の様に感じる地域です。

手すりのついた細い道を登り上がってみると、
その先はバスの通る大きな道になっています。

古い家もあります。森に囲まれた住宅で、
こんな所で住んでみたいと思ってみても、
12月末でさえ蚊がやってきます。
夏なら蚊の攻撃に退敗しそうです。

首里城の周りに沖縄県立芸術大学
アカギの木の森を出て、元来た場所に戻ります。
沖縄県立芸術大学の前を通ります。
キャンパスはそれほど広くありません。
この先も首里城に向かって、坂道を歩いてみましょう。
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ゆっくりと坂を登って行きます。
内閣府首里宿舎 首里寮と言うのも看板がありました。国有地です。
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首里城が見えてきました
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首里城が見えて来ました。
お城の周りの南辺りをゆっくり廻っています。

不思議なお家を見ました。
ベランダにも、上屋にも土盛りをして何かを植えています。
窓辺は竹で囲っています。

首里城の周りを一周して、
首里城の食堂がある広場辺りに戻ってきました。

石碑があります。
琉球王朝時代に冊封副使として琉球に派遣された
「葆光」の功績をたたえる、徐葆光顕彰碑です。

徐葆光は沖縄を調査し、沖縄の人々と交流し、
貴重な書物を残したそうです。
この記念碑は、クバの葉の扇をモチーフにした象を飾っています。

首里城の近くには昔の衣装を着た女性が、
観光写真を撮るように勧めています。
これが、最初見た、なぜ街中に、
琉球衣装を着た女性が横断歩道を歩いているのか?の答えでした。
観光客用の写真モデルでした。

守礼門です。
昔、沖縄が日本に返還される前に松葉博雄が来たときは、
まだパスポートが必要でした。

その時の首里城は、今のように舗装された道ではなく、
周りに建物もない砂地の道で、守礼門だけがぽつんとあり、
観光地のシンボルのように言われているけど、
たったこれだけかと思ったのを思い出します。
あのころは、沖縄3大がっかりとも、揶揄されていました。

それが今では付随する施設が沢山できています。
守礼門は一つだけでなく、凱旋門のように二つも三つもあったようです。

守礼門を通って先ほどの人力車の方向へ歩いてみましょう。
駐車場へ向かいます。駐車料金は一律310円でした。

今回は首里城の正殿には登りません。
松葉博雄は社員を連れて来ました。
このときは、復興記念で入場料が無料の時でした。
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首里の周りにはお寺やホテルなどがあります。
首里城炎上の新聞記事です
31日未明に発生した那覇市の首里城の火災で、
那覇市消防局は31日、出火元は正殿の可能性が高いと明らかにした。
午前2時40分ごろ、那覇市の首里城で
「煙が上がっている」と警備会社から119番通報を受け、
消防車両が10台以上出動して消火に当たったが、
首里城の正殿と北殿、南殿がいずれも全焼。
近接する「奉神門」や「書院・鎖之間」も延焼した。
出典 産経新聞
2011年12月29日(木)





