近江観光です。八幡は近江商人の街です。近江商人の残した理念は、「売り手良し、買い手良し、世間良し」です。
近江商人の街です。近江商人は、チームを組んで、ビジネスを広めました。近江八幡にお店を構えて、実際に商品を店頭で売り買いするよりは、チームを組んで、遠隔地とのビジネスを中心を置き、海外にまで商業や貿易を広げていたそうです。【近江八幡(2)】
近江商人は、商圏を広めたようです。ビジネスのやり方を、チームを組んでビジネスを広げるやり方を、近江商人に学びます。
近江の観光に来ています。近江といえば近江八幡です。
お昼ご飯を食べた後は、近江八幡の町を観光します。
ボランティアガイドさんの後をついて、案内されたのは、「池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群)」です。
アメリカ人のウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1905年にキリスト教の伝道を目的に、現在の八幡商業高校に英語の教師として来日しました。
その後は、建築家として、「建築物の品格は人間の人格と同じく、その外装よりもむしろ内容にある」との考えをもとに、建築活動を展開しました。
「池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群)」は、ヴォーリズが大正期に手がけた初期の作品で、アメリカ開拓時代を象徴するコロニアルスタイルと呼ばれる建物です。
以後、東京お茶の水の「山の上ホテル」、「大丸心斎橋店」、「関西学院大学」など、全国に約1600に及ぶ建築を手がけました。
ヴォーリズのことを内村鑑三は、「ヴォーリズ君は世に希に見る建築術の天才であり、また深く正しく日本を解し、これを愛する米国人の一人であります」と評価しています。
ヴォーリズは、建築の他にも、メンソレータム(現メンターム)を日本に輸入したことでも知られ、伝導・医療・学校教育・出版・社会教育・商業など、多方面に渡って活躍した人物で、近江八幡市民の名誉市民第一号に選ばれています。
浄土真宗本願寺派の「八幡別院」に行きます。
「八幡別院」は、八幡市内で随一の大寺院です。関ヶ原の合戦に勝利を収めた徳川家康の上洛の際に宿泊場所となり、朝鮮通信使の休憩所や食事場所としても使われていました。
ガイドさんの話に寄れば、朝鮮通信使の一行は、警護を含めて、1000人を超える大勢の人だったそうです。
先頭には異国情緒を漂わせる、朝鮮の民族舞踊をドラや太鼓を叩きながら踊りつつ、進行するのですから、行列の最後尾が出て行くには、相当時間が掛かったそうです。
次は、近江商人の町並みを散策します。
ガイドさんの話によれば、近江商人は、近江八幡にお店を構えて、実際に商品を店頭で売り買いするよりは、チームを組んで、途中の追い剥ぎ、強盗、たかりなどの旅の難を回避し、遠隔地とのビジネスに中心を置き、海外にまで商業や貿易を広げていたそうです。
これは、当たると利益が大きく、大きな身上(しんしょう)を築きました。中でも大きくなった近江商人は、両替商となり、大名旗本にお金を貸して、金融資本を蓄積していったようです。
朝鮮人街道とは、朝鮮通信使が九州から江戸幕府へ向う道です。
近江八幡市の朝鮮人街道は、徳川家康の出世街道を通行することを許しています。
この道は現在でも朝鮮人街道(野洲市より彦根市)とも呼ばれています。
吉例の道であり、大名行列の往来は許されなかった街道でした。
ボランティアガイドさんの話を聞いていると、昔の覇権を握った人は、誰がどの道を通るのかを、自分の裁量で決めていたのです。
気に入った行列は、関ヶ原の戦いで勝って凱旋した出世街道を通っても良かったのです。
織田信長が近江八幡を治めたとき、新しい街を開き、新しい住民を増やしていくと、寄せ集めの人たちが増えたので、みんなが参加できるお祭りを織田信長は考えました。
それが、「左義長祭」です。織田信長は、傾奇者(かぶきもの)と言われ、当時としては一風変わった舶来ものとか、女性の派手な服を着るような癖がありました。
左義長祭では、織田信長の傾奇者の文化を受け継ぎ、男性も女装したり、化粧をして参加しています。
歴史民族資料館には、近江八幡市の市民の方が、家にある季節のお祭に飾る人形を寄付しています。5月には、端午の節句なので、鯉のぼりや、五月人形などがたくさん展示されていました。
次は、伝統的建造物群保存地区の新町通りの観光に向います。
2010年5月13日(木)