朝日新聞自分史第8回編集会議です。

投稿No:7939

朝日新聞大阪本社にタクシーで行くと、ついたところは朝日放送でした。こんな間違えをする人は何年に一度あるかないかの間違えのようです。

朝日新聞自分史の編集会議は、今回は第8回目の会議になります。

編集会議の場所は、第7回編集会議と同じく、朝日新聞朝日本社会議室です。

神戸から大阪に阪急電車に乗って、梅田に着きました。

梅田からタクシーに乗って、朝日新聞大阪本社にお願いしますと、タクシーの運転手に行き先を告げて、確認も取りました。

今日のタクシーの通る道が、途中から違っているように感じました。

タクシーの運転手さんは、時々道を大回りすることもあるので、今日もそうかなと思って、車の中で土との景色を見ながら、朝日新聞社に着くのを待っていました。

外は小雨です。

道行く人は、傘を差して歩いています。

関西空港が先の台風21号の影響で機能が麻痺しているせいか、大阪の北区の街は少し元気がないように感じます。

タクシーが着いたところは、朝日新聞社と違うようです。

「ここです」と言われて、タクシー料金を精算して、車を降りて周りを見渡しても、どうも違います。

外に立ってた守衛さんに「ここは朝日新聞社ですか?」と尋ねてみました。

守衛さんはびっくりしたような顔をして、「ここは朝日放送です。」と言われました。

確かに、玄関には朝日放送と書いています。

「ここから、朝日新聞社は近いのですか?歩いて行けますか?」と尋ねると、少し距離があって、歩くと15分以上かかるそうです。

守衛さんの一言は、ぐさっと来ました。

朝日新聞と朝日放送を間違えるような人はあまりいませんという一言です。

間違ったのは私達では無くて、タクシーの運転手です。

と理由を説明することもしないで、約束の時間が気になり、急ぎ次のタクシーを止めて、もう一度朝日新聞社に向かいました。

今度乗ったタクシーの運転手さんも同情してくれて、「朝日新聞と朝日放送を間違えるタクシーの運転手はいません。よほど、大阪の街が分からない人だったのでしょうね」と、慰めてくれました。

間違ったのは仕方がないのですが、気になるのは、約束の午後二時を少し過ぎていたことです。

運転手さんのアドバイスは、朝日新聞という人は少ないです。

みなさん、フェスティバルホールというそうです。

これなら、間違える運転手さんはいません。

朝日の名前を付けて呼ぶのは、朝日新聞よりむしろ、朝日放送の方が多いのです。

「これからは、朝日新聞と言わないで、フェスティバルホールと言った方が良いですよ」と教えてもらいました。

朝日新聞社に着いたのは、15分を遅刻していました。

受付では藤本さんが待機して、待ってくれていました。

以前に、朝日新聞社阪神支局襲撃事件があり、朝日新聞社の社員が殺された事件があったので、今の朝日新聞社への出入りは、厳しくチェックされています。

入場証を貰って、何回もゲートでチェックを受けます。

13階の会議室に着いた時は、杉山知之さんと、粱根(あわね)さんは、すでに待機してくれていました。

皆さんに遅れたお詫びと、朝日新聞と朝日放送の間違った遅刻の理由をお話しして、理解して頂きました。

早速、校正作業の始まりです。

200ページの制限の中で、あと10ページほどゆとりが出来たので、その活用法を考えました。

私が考えたのは、写真をもっと増やす事です。

写真を探すのに、随分手間取りました。

30年も40年も前の写真は、どこにあるのかも見当がつかず、自宅や会社の事務所を何度も探しました。

探している途中で、思わぬ写真が出てくると、そちらの方の関心で、写真を探す手が止まり、昔の思い出に浸ってしまうことも何度もありました。

2004年頃からデジカメが普及して、写真はデジカメに変わりました。

それより以前は、DPEの写真です。

あの頃は一本のフィルムが36枚入りで、デジカメのように何枚jもフィルムの枚数を気にしないで、写真を撮るようなことは出来ませんでした。

自分史の中心は、阪神淡路大震災の頃です。

あの頃はまだ、フィルムによる写真撮影です。

一応写真を探し出して、その写真を自分史の何ページに貼り付けるのか、説明をしました。

朝日新聞社の編集担当者の方からも、細かい質問と指摘がありました。

なんだか、大阪市立大学大学院で、投稿論文を作成していた時のような、まるでゼミをしているような雰囲気です。

校閲の粱根さんは、校閲のプロです。

自分史の記事は、頭の中にある記憶を思い出しながら書きました。

その記録が一つ一つ正確であるか、間違っていないかを検証するのが粱根さんの仕事です。

私が学生の頃、ジェームス山自動車学校で、運転免許を修得しました。

これについて、ジェームス山自動車学校でなくて、ジェームス山自動車学院であるということが、粱根さんの指摘で明らかになりました。

このような例がいくつもあるのです。

よくぞここまで細部にわたって、目を通して頂いたと、私の方から感謝です。

杉山知之さんの方からは、小見出しの見直し案がいくつもありました。

指摘を聞いていると、さすがは新聞記者と思いました。

新聞の記事には必ず記事の内容を表す小見出しがつきます。

長年にわたって小見出しをつける、小見出しがどんな文字になったらいいのかを、的確に考える職業的なセンスがあることにも驚きました。

私が頭の中で考えていた小見出しとは違って、もっと洗練された小見出しになってきました。

各自が見直した修正箇所は、相当あります。

2時15分~始まった編集会議は4時半頃になりました。

今日は大阪に行く前、私は原因不明の発熱があり、体温を測っていると37度を越えていました。

体もしんどいので、奧さんが延期したらどうですか?と気を遣ってくれました。

しかし、一旦交わした約束は、少々の熱くらいでは中止できません。

頑張って編集会議に参加したものの、やはりしんどくなってきました。

私の体調不良が移ったのか、奧さんまでが私もしんどいと言い出したので、5時少し前に今日の編集会議は終了です。

最後の編集打ち合わせとしてはやや消化不良です。

藤本さんの考えでは、編集会議が終わったたあとは、軽く一杯飲んで、反省会を考えてくれていたようです。

私もゼミが終わったときの反省会が好きでした。

むしろ、反省会が楽しみで、ゼミに出席していたような頃もありました。

皆さんとこの後はメールで打ち合わせをして編集作業を進めることになりました。

まだまだ完成までには一つも二つも山がありそうです。

2018年9月12日(水)