東大寺大仏殿は、平清盛の命による南都焼討と 松永久秀の東大寺攻めで二度焼けています。

東大寺大仏殿の戦い 東大寺の大仏殿は、南都焼討と東大寺攻めで二度焼けています。租庸調雑徭の税制では、お米や、特産物をおさめるだけでなく、力仕事も賦課されています。 奈良県大人の修学旅行(10) 社長ブログ奈良/東大寺/蘭奢待(らんじゃたい)

東大寺の大仏殿

蘭奢待(らんじゃたい)という、香木があります。

素晴らしい香りがする香木です。

この字の中には、東・大・寺という文字が含まれています。

蘭奢待(らんじゃたい)は、

奈良正倉院に納められている御物です。

この蘭奢待を切り取って、

お香として使った人が何人かいます。

調査では、足利義満、足利義教、足利義政、

土岐頼武、織田信長、明治天皇の6名です。

特に有名なのは、

力に任せて蘭奢待を提出させた、織田信長です。

東大寺の大仏殿に向かう参道で、

蘭奢待の事を思い出しました。

香木の中に東大寺の文字が入っているのですから、

貴重な香木です。

木陰によって、

ボランティアガイドさんの説明を聞いています。

東大寺は、これまで2度火災に遭っています。

一回目は、平清盛の命による、南都焼討(1180年)です。

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南都焼討(なんとやきうち)は、

治承4年12月28日1181年1月15日)に

平清盛の命を受けた平重衡平氏軍が、

東大寺興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件。

平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する

大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、

治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。

出典 Wikipedia 南都焼き討ち

二回目は、松永久秀の東大寺攻め(1567年)です。

三人衆・筒井連合軍が奈良に駐屯してから約6ヵ月が経過した。

多聞山城を背後に松永・三好連合軍も奮闘しているが、

兵力は三人衆・筒井連合軍が上で、

有利に作戦を展開していた。

膠着状態の中、10月10日に

松永・三好連合軍は三人衆軍の本陣がある東大寺を奇襲した。

この時の戦いの状況を「今夜子之初点より、

大仏の陣へ多聞城から討ち入って、

数度におよぶ合戦をまじえた。

穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、

それから大仏殿回廊へ延焼して、

丑刻には大仏殿が焼失した。

猛火天にみち、さながら落雷があったようで、

ほとんど一瞬になくなった。

釈迦像も焼けた。言語道断」(『多聞院日記』)と記している。

午後11時に戦闘が開始され、

戦闘中に穀屋から失火し法花堂それから大仏殿回廊、

そして日をまたいだ翌10月11日午前2時には

大仏殿が焼失したようである。

また、「四ツ時分から、大仏中門堂へ松永軍が夜討、

三人衆側も死力を尽くして戦ったが対抗できず、

遂には中門堂と西の回廊に火を放たれて焼失した。

この戦いで多くの者が討ち死にした。」

(『多聞院日記』)と記しており、

『東大寺雑集録』にも午後10時と記載されているので、

戦闘はこの時間帯から開始されたと思われている。

十分な戦闘準備が整っていない三人衆軍の不意打ち狙いであり、

東大寺は防備を目的とした砦でもなく、

そのような中で懸命に防ごうとしたが支えきれず、

浮き足だって崩れ去っていったのではないかと思われる。

この戦いで三人衆軍は討ち死にしたり、

焼け死んだりした者が300名を数えた。

ルイス・フロイスの『日本史』では

違う内容で記載している。

「多聞山城を包囲した軍勢の大部分は、

その大仏の寺院の内部とこの僧院のあらゆる場所に宿営した。

その中には我らの同僚によく知られていた

一人の勇敢な兵士もいたのであるが、

我らは世界万物の創造者に対してのみ

ふさわしい礼拝と崇敬のことに熱心な、

誰かある人にたきつけられたからというのではなく、

夜分、自分が警護していた間に、

ひそかにそれに火を放った。

そこで同所にあったすべてのものは、

はるか遠くはなれた第一の場所にあった一つの門、

および既述の鐘以外は何も残らず

全焼してしまった」(『日本史』)と記してある。

この文中にある「我ら」というのはイエズス会のことであり、

三人衆軍の兵士でイエズス会に入信している誰かが放火したとしており、

『多聞院日記』や『東大寺雑集録』とは違う記載になっている。

切羽詰った久秀が三人衆軍を大仏殿ごと焼き殺そうとした兵火説や、

不意打ち狙いの夜襲のためやむ得ず失火してしまった説、

三人衆軍の一部の兵による放火説など、現在でも議論になっている。

奈良の大仏を

「戦国時代に仏頭は松永久秀の兵火によって

焼き落とされ」と紹介されたり、

織田信長が徳川家康に松永久秀を紹介する時に、

三悪事の1つとして東大寺大仏を焼討したと紹介したので、

久秀が焼討したと現在でも語られている。

しかし『大和軍記』には

「(三好軍の)思いがけず鉄砲の火薬に火が移り、」

と記載されていたり、『足利李世紀』には

「三好軍の小屋は大仏殿の周囲に薦(こも)を張って建っていた。

誤って火が燃えつき、」と記載されている事から、

『松永久秀の真実』では「松永方が放火して焼けたのではなく、

罪があるとしても、過失により、大火を招いたものだろう。

ましてや久秀が指示して大仏殿を

焼いたということはあり得ない」としていたり、

『筒井順慶の生涯』によると

「大仏殿は久秀が意図的に焼いたものではなく、

戦のさなかに三好方で起きた

不慮の事故によって焼けてしまった」

としていたり、

今谷明によると「大仏炎上は久秀の仕業とされているが、

実際は三好方の失火であった。

信長に2回も謀反した悪辣ぶりが後世の付会を呼んで、

すべての久秀の罪業に押付けられたのである」とする[2]

これより直ちに「松永久秀の放火説」がなかったとは言えないが、

最近の研究によると

「戦の最中の不慮の失火説」が有力である。

この時焼失したのは、大仏の仏頭、伽監、念仏堂、

大菩提院、唐弾院、四聖坊、安楽坊などであった。

鐘楼堂も火がついたが

こちらは僧侶達の消火活動によって類焼を避けることができた。

いずれにしてもこの火災で三人衆軍、

池田軍は総崩れになり、摂津、山城に退いていった。

また、滝山城の戦いで活躍した別所軍もいたようで、

5月17日に岩成友通隊が布陣していた氷室山法雲院にいたが、

大仏殿が焼けるとみるや自陣を焼いて播磨へ帰国した。

一方の筒井軍は後方の大乗院山に布陣していたためか、

大きな被害はでず筒井城に引き上げていったと思われている。

また別の説では松永軍が次々と寺を焼き払うのを見かね、

東大寺を主戦場とする三人衆と意見の相違があり、

残留部隊のみを残し早々に筒井城に引き上げていたという見解もある。

しかしこの時の順慶の詳細な行動については記録がなく、

詳しいことは解っていない。

戦後の影響

再建の度に全国から巨木が集められましたが、

段々と巨木も底をつき、

大仏殿を支える支柱は集まりにくくなっています。

その為、何本の木を重ねて使う、

現代でいう合成材を使った方法も考えられています。

大仏殿じたいは、その規模も小さくなっています。

現在の大仏殿は三代目ですが、

昔の大仏殿に比べるとかなり小さくなっています。

大仏殿の前に、国宝の燈籠が立っています。

この燈籠は、美術の教科書で見た事がある、

すぐれた彫刻が施されています。

近くまで来ると、大仏様のお顔だけを、

遠くの庶民に見せるための、窓が見えてきました。

あの窓を開けると、大仏様のお顔の高さになっていて、

大仏様が窓越しに見えるように設計されています。

大勢の参拝客の後について、

石段を上り、大仏殿の中に入ってきました。

大仏殿の中は、外に比べると、

明かりが制限されて、暗い感じがします。

空気も少し冷たい感じです。

大仏殿が焼かれたとき、大仏様も影響を受けています。

高い温度で焼けたため、大仏様の素材である、

銅ですら溶けたそうです。

しかし、全てが溶けたわけではありません。

分厚い部分の、胸より下は残っています。

再建には、残っていた台座や胸部部分に、

それより上を継ぎ足したようです。

大仏様の台座のすぐ側には、

集合材で作られた大きな柱が見えます。

集合材を重ねるために、

鉄のリングで止めていました。

聖武天皇が東大寺大仏殿を建てた頃は、

今のような機械重機はありません。

全国から巨木を集めたり、

銅を溶かして鋳型に入れて大仏を形成していくことは、大仕事です。

つまり今で言う、国家プロジェクトです。

東京オリンピックを、国を挙げて支援するのと同じ事です。

副次的な効果は、公共事業的な経済の活性化です。

聖武天皇の時代の税制は、

租庸調・雑徭(そようちょう・ぞうよう)です。

お金や、お米で納税が済めばいいのですが、

力仕事を求められると、

庶民は命令されたところにまでいって、働かされています。

奈良の大仏を作る時も、きっと長期間ふるさとを離れて、

都まで大仏殿の工事に行かされていた事だと思います。

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2016年5月19日(木)