震災復興支援物資は山積みのまま未整理でした。1.17神戸震災19日目(№16)

復興支援物資 山積みのまま未整理でした。1.17神戸震災19日目 神戸市役所の地域医療課へ行き、松葉眼科の再開をマスコミに伝えて頂くよう、お願いしました。

復興オープンの告知活動

松葉眼科が復興オープンしたことは、

誰にも知られていませんでした。

震災後、眼の診察と治療を

多くの方が望んでいると思いました。

治療を受けたい罹災者に、

治療ができる診療所がオープンしたことを伝えたいのです。

併せて、コンタクトレンズの供給も

再開できるようになったことを、伝えたかったのです。

松葉眼科とさんプラザコンタクトレンズが

復興オープンしたことを

広く罹災者に向けて伝えにいくために、

市役所本庁6階の地域医療課を訪問しました。

ここでは、医療関係に関する復興の状況を把握し、

その情報を新聞社やラジオ局へ伝え、

新聞・ラジオから私たちの復興を

伝えてもらうために訪れました。

この行動は後日、新聞、ラジオにより

予想どおりの効果が表われてきます。

報道を通じてさらに

支援の声が届くようになりました。

「祝・今西ビルでの営業再開 」

 

全国から届いた医療関係の支援物資

市役所もこの緊急事態に大忙しのようでした。

全国から届いた医療関係の支

援物資も地域医療課が情報を持っています。

すぐにいただける医療用綿花、

消毒用ウェットティッシュ、ガーゼなどは市役所で

いただいてきました。

さらに、必要な物は、

今のところ分散して小学校の体育館に保管しているので、

そちらに受け取りに行ってくださいと言われました。

眼科の診療をしていく上で、

緊急用の医療用具が届いているようです。

三宮の近くであれば、新幹線新神戸駅の近く、

生田川の川沿いにある若菜小学校に

行ってくださいと言われました。

メニコンから届いたケア用品は?

メニコンからケア用品が送られているので、

それを探しに行きました。

イメージ画像「校庭での避難の様子」
サンデー毎日臨時増刊号、毎日新聞社
 

若菜小学校に歩いて行ってみると、

教室は罹災者の方の避難施設になっていました。

ダンボールで仕切りをし、

タタミ2畳分ぐらいで、

人が横になって寝ていました。

生活用品は身の周りに置けません。

そばには最低の生活用品を置くぐらいの

スペースが一人分の避難所になっています。

お弁当も毎回ほぼ同じような内容の食事なの

避難所の食事は、お弁当が支給されていました。

皆さんは炊き立てのホカホカの白いご飯を

食べたいことと思います。

もちろん私も今は、お昼は近くの市役所に行き、

市役所で支給されるお弁当を

毎日いただいています。

メニコンから送られたコンタクトレンズのケア用品は、

どこにあるのでしょうか?

ボランティアの方に尋ねて、

支援物資が置いてある場所の体育館を探して行きました。

「ここにあります。自分で探してください」と言われました。

支援物資は山積みのまま 分別されてません

若菜小学校の体育館には、

フローリングの床の上に

4、5メートルもある

支援物資が山積みされていました。

全国から届いた善意の支援物資です。

これがしかるべきところに届いて、

罹災者の手に渡れば善意は生かされます。

しかし、ボランティアの方の人出が足りないので、

支援物資の仕分けができていません。

どの支援物資も、ダンボールに入り、

ガムテープや紐で包装され、

中に何が入っているのか

まだ仕分けもされないまま、山積み状態になっています。

この山のような支援物資の中から、

求める医療用具やレンズのケア用品を見つけることは、

とても私一人で短時間にできることではありません。


≫「1.17の記録」より支援物資配布写真

もったいないなぁ

まさしく宝の山に入ったものの、

為すすべもなく、あきらめてため息をついて

座り込んでしまいました。

この全国から集まった

温かい心のこもった支援物資は、欲しいと思えば、

今いただけるのですが、

神通眼でもなければ、中身は確かめようもありません。

もったいないなぁと、ため息が出ました。

きっとこの中に

メニコンから届いているケア用品やレンズに関する支援物資が

あるはずなのです。

あきらめきれない気持ちを引きずりながら、

しばらく考え込んで、

未練を断ち切り、若菜小学校をあとにしました。

メニコンへ、直接わが社へ支援物資を送ってくださいと

社長へ、電話でお願いしたのですが

メニコンの判断としては、

特定の得意先へ支援物資を送ることは、

平時に戻った時に、

有力取引先からクレームがあったら言い訳に困る、

ということなかれ主義の判断でした。

現実は、そごう、大丸、国際会館は壊滅しています。

復興に立ち上がったのは、わが社だけです。

イメージ画像「校庭での避難の様子」
サンデー毎日臨時増刊号、毎日新聞社
 

ボランティアの支援に支えられて

校庭にはたくさんの避難している家族の方と、

全国から集まりつつあるボランティアの

皆さんが何か忙しそうに、

復興に向けて協力をしている姿が見えました。

ボランティアの方はたいてい若い方でした。

気持ちは先走って何かをしなければと思っていても、

何をどのようにすればよいのか

指揮者が必要のようでした。

若い体力のある人たちを的確に動かす経験のある

現場指揮者がいるかいないかで、

大きく効果が変わるように思いました。

このようなボランティアの活動を

今まで見る機会がありませんでした。

自衛隊や警察、消防隊などの政府系の支援が、

人体に例えて言えば主血管の役割に対し、

民間のボランティアの人たちが毛細血管のようです。

血管の先端として体の隅々に入り込み、

大切な酸素を供給しているように感じました。


この日の出来事は後半へ続きます…

阪神淡路大震災19日目:1995年2月4日(土)

                                        2019年1月 加筆・更新


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