戦争の悲惨を伝える 糸満市 喜屋武岬(きやんみさき)犠牲になったのは非戦闘員の島民
投稿No:10148
糸満市にある沖縄本島最南端の岬 高さ10~20mの断崖が切り立つ 喜屋武岬
沖縄へ来ると、
どこに行こうかと、いつも悩みます。
恩納村周辺は、もう行き尽くしてしまったので、
今回は、久しぶりに沖縄本島の南端にある、
糸満市までやってきました。
糸満は古くから「漁師の町」として知られ、
沖縄の豊かな海と共に歩んできた
長い歴史があります。
一方で、太平洋戦争末期の沖縄戦では
最終決戦の舞台となり、
深い悲しみを背負った地でもあります。
糸満市のどこへ行こうか考えて、
沖縄本島最南端の岬である、
喜屋武岬へやって来ました。
この場所は、自然の雄大さとともに、
沖縄の歴史の深みを感じることができる場所です。
喜屋武岬の最大の魅力は、
その圧巻の眺望です。
喜屋武岬からは、目の前には東シナ海が広がり、
高さ約30メートルの断崖絶壁が
その存在感を示しています。
崖下では力強い波が岩肌にぶつかり、
白い飛沫を上げる様子が圧巻で、
自然の力強さを感じることができます。
この景色は、
写真に収まりきらないほどの
スケール感があります。
崖周辺には沖縄ならではの植物が自生していて、
鮮やかな緑と海の青さがとても綺麗です。
沖縄特有のエメラルドグリーンの海ではなく
濃い色の海が広がっています。
崖の上から見下ろす青く澄んだ海は、
天気の良い日には遠くまで見渡すことができ、
季節によっては水平線の彼方に
慶良間諸島が見えることもあるそうです。
とても素晴らしい景観の
喜屋武岬ですが、終戦間際には
悲劇が起きた地でもあります。
この地は、1945年の沖縄戦末期において、
数え切れない命が失われた場所なのです。
太平洋戦争の終盤、
戦況が南部へと移る中で、
糸満市を含む地域は
激しい戦闘の舞台となりました。
住民たちは家を失い、逃げ場を求めて
南へと追い詰められました。
喜屋武岬は、その最果ての地でした。
しかし、彼らを待っていたのは避難所ではなく、
断崖絶壁とその先に広がる果てしない海でした。
沖縄戦、悲劇の岬
昭和二十年(1945)四月一日、 米軍の嘉手納海岸への上陸開始。 五月下旬には、日本軍は米軍の物量 にじりじりと押され、 戦闘は首里の攻防をめぐる戦いへと移っていた。 ここまでは軍作戦の想定内で、 県民の避難は米軍上陸前に 予定通り進められていたと云われている。 ところが、沖縄防衛の第三十二軍司令部内では首里高地を死守して玉砕するより、 米軍の本土上陸を遅らせるためには 長期持久戦に持ち込むべきであるとして 南部後退の作戦が決せられたのである。 作戦方針の転換であった。 沖縄南部の喜屋武半島へ後退して 最後の最後まで戦い続けるということなのでした。 この後退作戦は南部在住またはこの方面に避難していた 県民たちを戦場にさらし、 戦火に巻き込む結果となってしまったのである。 軍の南下とともに一般人たちも 南へ南へと避難場所を求めて移動した。 この過程で多くの悲劇が起きてしまったことを 私達は忘れてはならないのです。 一般人が避難していた洞窟や壕に兵隊が入り込み、作戦と称しては 一般人を砲弾の飛び交う地上に 追い出したという例もあったようだ。 また軍の構築した陣地内に避難してきた 一般人を軍は追い出したとも云われています。 一般人を戦火に巻き込まぬためという軍の言い分もあるのであろうが、 県民を守るための軍ではなかったのしょうか。 これが戦争の実態でした南部に後退した日本軍の各部隊は 物量豊富な米軍を相手に 死力を尽くして戦い続けましたが、 六月も半ばになると各戦線で 全滅する部隊が続出しました。 六月十八日、摩文仁の丘に後退していた軍司令官牛島満中将は 「最後まで敢闘せよ」と 残存各部隊宛に最後の命令を下した。 つまり玉砕命令です。 ここ喜屋武岬付近に後退して 戦い続けていた第六十二師団は二十二日、 ついに力尽き、 師団長以下師団幹部が自決して玉砕しました。 翌日、摩文仁の軍司令部では牛島軍司令官と長参謀長が自決、 軍としての組織的戦闘に終止符を打ったのです。 軍は壊滅し、 岬の戦場に取り残された一般島民は悲惨でした。ある者は手榴弾などで自決し、 またある者は岬の崖から身を投げるなどして 多くの人々が悲惨な最期を遂げたのです。 注)資料出典 喜屋武岬HPより |
戦争の混乱の中で、
「敵に捕まるくらいなら死を選ぶべきだ」との
考えが広まっていたと言われています。
そのため、多くの住民がこの場所で
命を絶つことを余儀なくされました。
追い詰められた人々が抱えた恐怖や絶望、
そして家族と共に命を落とすという悲劇は、
想像を絶するものです。
断崖から身を投げるという
最も過酷な選択を迫られた瞬間、
彼らがどのような思いを
抱いていたのかを考えると
胸が締めつけられます。
現在、喜屋武岬には
慰霊碑が建てられ、戦争で犠牲となった
多くの人々を悼む場となっています。
この碑は、戦争の悲劇を忘れず、
平和の大切さを
後世に伝えるために設置されました。
奥さんが、訪れた人たちの
写真を撮ってあげていました。
現在の喜屋武岬は、
美しい海と空が広がる穏やかな場所です。
この平和は、
私たち一人ひとりが
次の世代に引き継ぐべき大切な遺産です。
どんなに穏やかで美しい日々が続いていても、
それを当然と思うのではなく、
未来のために守り続ける責任が
あることを忘れてはなりません。
沖縄は、楽しい観光地であると同時に、
戦争の悲劇を経験し、
そこから立ち上がってきた場所でもあります。
たまにはこうして、
歴史について触れる時間も
大切だと思いました。