平清盛のゆかりの地、神戸 兵庫区の能福寺「兵庫大仏」、神戸事件の滝善三郎辞世の句を見て、JR和田岬線に乗りました。

平清盛のゆかりの地で神戸と言えば、兵庫区です。神戸には、平清盛が遷都した福原の都があります。

平清盛のゆかりの地に向かって、ぶらぶら歩いて、JR線の高架下を潜り、海に向かって、歩いていると、神戸の「兵庫大仏」が遠くからでも、すぐに見えました。

能福寺の「兵庫大仏」

能福寺の兵庫大仏さまは、平成3年(1991年)に作られています。

能福寺の「兵庫大仏」

大仏さまの高さは11m、台座の高さは7m、重さ約60トンで総工費は約5億円を要したと言われています。

能福寺の「兵庫大仏」

「兵庫大仏」を間近で見ると、とても大きいです

能福寺の「兵庫大仏」

能福寺には、平清盛公のお墓があります。そうなると、神戸兵庫区の歴史と文化は、かなり古い時代から始まっています。

能福寺には、平清盛公のお墓があります

平清盛公は、京都の都を兵庫の福原に遷都したことがあります。

能福寺には、平清盛公のお墓があります

能福寺は「神戸十三仏霊場」の8番目にあたります。「神戸十三仏霊場」についての記事はコチラからご覧ください。能福寺は、2005年に、開創1200周年を迎えています。相当な歴史です。

明治の新政府になった頃、神戸は開港して、人が集まり、外国船も出入りしていた頃のことです。

明治の新政府になった頃の神戸事件の様子

岡山藩の大名行列と、フランス水兵が遭遇し、岡山藩士の滝善三郎が、フランス水兵を無礼者として、刀で切ってしまいました。(神戸事件)

明治の新政府になった頃の神戸事件の様子

「きのう見し 夢は今さらひきかえて 神戸の浦に 名をやあげなむ」滝善三郎辞世の句その責任を負って、滝善三郎は、ここ能福寺で外国人代表らの立会いの下、切腹をし、そのときに残した辞世の句が、これです。

学校の塀には、兵庫の物語が描かれています

学校の塀には、兵庫の物語が描かれています。

学校の塀には、兵庫の物語が描かれています

太平洋戦争での神戸空襲、兵庫大仏、江戸末期の高田屋嘉兵衛にまつわる絵が描かれています。

学校の塀には、兵庫の物語が描かれています

兵庫区を歩いてみると、神社とお寺が多いことに気がつきます。

学校の塀には、兵庫の物語が描かれています

それだけ、兵庫区の歴史が古く、神社仏閣を建立できる豪族がいたことになります。

兵庫区を歩いてみると、神社とお寺が多いことに気がつきます

一遍上人の建てた一遍宗のお寺もありました。

兵庫区を歩いてみると、神社とお寺が多いことに気がつきます

「これは珍しいな」と思います。

一遍上人の建てた一遍宗のお寺もありました

交差点の角には、平清盛を祀る清盛塚の小さな杜がありました。

一遍上人の建てた一遍宗のお寺もありました

平清盛は、兵庫に都を移したことで、土地を広げ、港を作り、橋を架け、寺を作り、神社を作りました。

兵庫の文化の始まりは、1200年も前から始まります

このことからも、兵庫の文化の始まりが、1200年も前からであることが分かります。

兵庫の文化の始まりは、1200年も前から始まります

平清盛は、平氏で、結局は源氏に敗れる訳ですが、神戸が戦場となった一の谷の戦いなどが、その後、講談、演劇、歌劇、文楽などに残っています。

兵庫の文化の始まりは、1200年も前から始まります

桜の花もちらほら咲き、歩き疲れて、やる気が無かったころに、励ましてくれました。

兵庫の文化の始まりは、1200年も前から始まります

やっとのこと、1時間ほど歩いて、JR和田岬駅まで辿り着きました。

JR和田岬駅

JR和田岬駅は、JR兵庫と和田岬を結ぶ枝線です。主に、和田岬の工場で働く人たちのための通勤用の電車です。「一度乗ってみたいな」と思っていました。

和田岬線は、和田岬の工場で働く人たちのための通勤用の電車です

初めて経験することがあります。和田岬の乗り場には、駅員さんがいません。電車に乗る場所も、入り口が駅だけでなく、一般道路からも入り口が付いていて、ホームに上がれます。

和田岬線は、和田岬の工場で働く人たちのための通勤用の電車です

わずか一駅だけです。10分もしないうちに、兵庫駅に着きました。

兵庫駅と和田岬駅は、わずか一駅だけです

下りたところで、自動清算機で運賃を投入すると、改札を出られるようになっています。JRでたった1駅の距離ですが、兵庫と和田岬では、物価が随分違うことが分かりました。

兵庫駅と和田岬駅は、わずか一駅だけです

今日は、兵庫区のうち、新開地から始まり、南へ南へ歩いて、南下してみました。まだ、兵庫区には、東と西、ひよどりに繋がる北地区があります。