『散る桜 残る桜も 散る桜』
願わくば花の下にて春死なん その如月の望月のころ 社長ブログ神戸/桜
『散る桜 残る桜も 散る桜』これは、良寛和尚が詠んだ歌です。
桜が散るのを見送るように、これまでの人生で、多くの人を見送ってきました。
祖父や、祖母、父や母、そして兄など、家族の見送りから、先輩、知人・友人、取引先、近隣の方など、年齢が私より上の方なら、散る桜として理解できます。
しかし、見送って、残っている私も、いつかは散る桜になりそうです。
こう考えると散るのはいつが良いのか考えてみると、
『願わくば花の下にて春死なん その如月の望月のころ』と詠んだのは、西行法師です。
一説によると、仏陀の入滅した頃は、旧暦の2月、今の4月初め頃と言われています。
西行法師もこの入滅に合わせて、桜の花の咲く頃、仏陀の入滅のように、自分の生涯を終えたいと思ったのかと思います。
父・松葉章一が私の子供の頃よく話してくれた、生と死の紙一重の話です。
フィリピンの戦地で米国兵に追い詰められて山野を逃げ歩いていたとき、空襲があると、先ほどまで生きていた戦友が一瞬のうちに亡くなる事があったそうです。
その生と死は、わずか数メートルの距離で起きて、たまたまそこに空襲の銃弾が飛来して亡くなってしまったそうです。
考えて選んでその場所にいたのではなくて、偶然その場所に身を隠していた戦友が空襲で亡くなくなってしまうのです。
本当に桜の花が強風で散ってしまうような儚さだったそうです。
その父も終戦を迎えて生き延びる事が出来ましたが、90歳を超えると天寿全うで4月に亡くなりました。
多くの戦友が散っていき、残った父もいつかは散っていく桜のような定めなのです。
桜の咲く頃に、花見に行きたいと思い、どこに行こうかと迷い、今度花見に行くなら、あの場所に行きたい、あそこも見たい、ここも見たいと、心穏やかではありません。
この気持ちは、『世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし』と、在原業平が詠んだ気持ちと同じです。
寒い冬から急に暖かくなる桜の咲く頃は、気持ちを落ち着かそうとしても落ち着かないほどそわそわしてしまいます。
ちょうど、美しい女学生が家の前を通る時間に、偶然を装って一緒に学校に行く男子生徒のようなものです。
2016年4月7日(木)