徳川家康は江戸の徳川本家に、お世継ぎが途絶えたときに備えて、 後継者を出す徳川の御三家を創りました。 尾張徳川家 徳川義直、 紀州徳永家 徳川頼宣、 水戸徳永家 徳川頼房の御三家です。 強固な名古屋城も、アメリカ軍のB29の爆弾には適いませんでした。
徳川家康は江戸の徳川本家に、お世継ぎが途絶えたときに備えて、 後継者を出す徳川の御三家を創りました。 尾張徳川家 徳川義直、 紀州徳永家 徳川頼宣、 水戸徳永家 徳川頼房です。 強固な名古屋城も、アメリカ軍のB29の爆弾には適いませんでした。江戸の時代も、現代でも、国家財政は破綻しています。債務が膨れ上がった藩は、悲劇に向かっていきます。 名古屋観光(4)
尾張徳川家 徳川義直、 紀州徳永家 徳川頼宣、 水戸徳永家 徳川頼房が御三家です。
江戸の時代も、現代でも、国家財政は破綻しています。いつか来た道です。
『国家は破綻する』と、カーメン・M・ラインハートと、ケネス・S・ロゴフは述べています。
次は名古屋城です。名古屋観光ルートバスを降りて、大手門に向かいます。
尾張名古屋は城で持つ
徳川家康が造り、『尾張名古屋は城で持つ』と言われた名城です。
徳川家康は、江戸の徳川本家に、お世継ぎが途絶えたときに備えて、
後継者を出す徳川の御三家を創りました。
尾張徳川家 徳川義直、
紀州徳永家 徳川頼宣、
水戸徳永家 徳川頼房です。
この名古屋城も、アメリカ軍のB29の爆弾には適いませんでした。
さすがの徳川家康も、想定した敵は日本の有力大名レベルで、
世界の有力国との対戦までは考えてなかったようです。
お城に入ると、金のしゃちほこの見本が展示されています。
本丸御殿復元費用のための、100円募金を募る箱が、金のしゃちほこと一緒に置かれています。
名古屋には軍需工場があったので、空襲による爆撃はすさまじく、
名古屋城も巻沿いにあってしまいました。
現在の名古屋城の天守閣は、1959(昭和34)年10月に再建されたものです。
名古屋のお城の美しさは、白壁にあります。
それが50年も経過すると、段々と黒ずんできています。
ここは一度、50年に一度、お化粧直しが欲しいところです。
金のしゃちほこは、天守閣のてっぺんに堂々と光っています。
名古屋城も大阪城と同じように、鉄筋コンクリート造りで、
天守閣にはエレベーターで上がります。
最上階に上がると、名古屋市街を四方から眺られます。
応仁の乱から続いた戦国の世は、天下統一が望まれ、天下統一を目指したのは織田信長です。
織田信長は乱れた世の中に『天下布武』を唱えました。
これは織田信長の基本理念です。
これまでの弱った政権から軍事政権を樹て、
武力による統一政権を目指します。
せっかく上手くいってた天下統一は、惜しくも明智光秀の謀反により、挫折してしまいます。
織田信長は、明智光秀の事を『あのハゲネズミ』と蔑称していたので、
自害の前はさぞかし悔しかった事だと思います。
棚からぼた餅が落ちてきたのが豊臣秀吉で、電光石火の早さで、
『中国大返えし』を行い、わずか10日で明智光秀と天王山の戦いに臨みます。
その後、織田信長の遺業を継ぎ、天下統一を実現し、関白となります。
織田信長と少し違うのは、織田信長が受けなかった律令体制の官職を、
豊臣秀吉は受けたことです。
3人の英雄をほととぎすの鳴き方に例えて、
・なかぬなら殺してしまへ時鳥(織田信長)
・鳴かずともなかして見せふ杜鵑(豊臣秀吉)
・なかぬなら鳴まで待よ郭公(徳川家康)
と、三者三様を例えられています。
辛抱が良いのが徳川家康です。
幼い頃から今川義元の人質として育って、
織田信長に協力して、次は、次の次は、きっと自分の世が来ると、
家臣団と自重していました。
その甲斐あって、豊臣秀吉の没後は頭角を表し、石田三成が決起するように仕向け、
豊臣秀吉の正妻の『寧々』さんを味方に付け、天下分け目の関ヶ原の戦いに持ち込みます。
どちらが勝つのかわからないほど均衡した戦いに、
どちらに付けば、この後の本領安堵が得られるのかという
諸大名の疑心暗鬼に付け込んで、小早川秀秋の寝返りを誘い、
戦局を変え、勝敗を決してしまいます。
以上が戦国覇者の簡単なストーリーですが、さすがの徳川家康も、
対戦相手をドメスティックに限定し、まさかマッカーサー連合軍が攻めてくるとは、
そこまでグローバルな想定はしていませんでした。
お城に来ると、皆さん不思議に思うことは、
こんな大きな石を機械の無い時代に、どうやって運んだのだろうかという疑問です。
ちゃんと問題を想定して、石垣作りの人夫達の大きな石を運ぶ模型が展示されています。
やはり人力です。
江戸時代のお店を模した、武具屋さんがありました。
当時は古い武器や甲冑、その他にも装飾類など色々売っていたようです。
売る人は、生活に困った武家のようです。
本屋を模したお店があります。和本の沢山詰まった書斎に、
リサイクルされる和書が積み上げられています。
本は今の様に、読み切り読み捨てではありません。
世界中に通用する言葉に、KOBANがあります。
その原型が自身番です。
自身番には、不審者や火の元の警備をする、端役の役人がいました。
尾張のお殿様が食べたという、食膳が再現されています。
こんな贅沢が出来たのも、江戸の初期までで、江戸時代は貨幣経済との戦いになります。
収入が年貢米しかなかった幕藩体制では、
武家社会では消費すればするほど、借金が嵩み、
享保の改革、寛政の改革、天保の改革と、どんどん質素倹約に進んで行きます。
一方、商業は益々栄え、各地に商業資本が生まれ、豪商が誕生し、
華美な生活を送ると、幕府は、豪商の取り潰しをしょっちゅう行っていました。
こんなご馳走を、殿様以下や重臣達が食べていれば、藩の財政が傾き、
更に大奥ではお殿様に仕えるお女中達が、
綺麗な着物や、飾り物、化粧、小間物などを買い続けていれば、
今でいう財政破綻が起きるのも当然のことです。
2012年5月24日(木)