蘇鉄問答:徳川家斉将軍と島津斉興候との、蘇鉄問答 新緑の岡山後楽園
蘇鉄問答:徳川家斉将軍と島津斉興候との、蘇鉄問答 新緑の岡山後楽園 江戸時代には、大名屋敷に、蘇鉄を庭に植えることが、流行りました。岡山倉敷歴史の街散策(4)
アヤメ、菖蒲、カキツバタ、
それぞれの違いは、棲むところの違いです。
普通の土に咲くのが「アヤメ」、
やや水気のある湿地に咲くのが「ハナショウブ」、
水のある沼地に咲くのが「カキツバタ」ということになります。
後楽園の花菖蒲畑です。
昔、田畑だった庭園の一部を再現した場所です。
見頃は6月上旬とのことで、
まだ一部分しか咲いていません。
花菖蒲は大きく分けると、
野外観賞に適していて品種が豊富な江戸系、
室内鑑賞向けに改良された伊勢系と肥後系、
原種の特徴を強く残す長井古種の4系統などがあります。
後楽園の庭園からは、
岡山城が色々な方向から見られます。
広々とした芝生に四季折々の花々。
木々の緑が周囲のビル街を覆い隠し、
街の中心にいることを忘れさせてくれます。
普通の土に咲くのが「アヤメ」、
やや水気のある湿地に咲くのが「ハナショウブ」、
水のある沼地に咲くのが「カキツバタ」だそうです。
花菖蒲は棲むところにより、少しずつ進化をしています。
それはアヤメ、ショウブ、カキツバタと名前が変わっています。
花菖蒲は大きく分けて江戸系と肥後系、
伊勢系に分かれます。
1800年代に江戸の旗本が野に咲く
菖蒲から品種改良を重ねて花菖蒲を作ってきました。
それを肥後の殿様が頼んで分けてもらい、
肥後の地方で品種改良を行ないました。
蘇鉄の群生もありました。
蘇鉄があると、沖縄のような、
南国のようなイメージを連想させます。
この蘇鉄も、大名たちの間で、
庭に蘇鉄を植えるのが流行ったことが、
後楽園に蘇鉄が植えられた原因になります。
となると、この蘇鉄の株は、どこから来たのでしょうか?
江戸時代の小話に、徳川幕府将軍家斉の隠密目付が、
薩摩藩に潜り、薩摩藩の藩邸の蘇鉄の木について、
薩摩藩主 島津斉興に、ちらっと、
「幕府は、薩摩藩の蘇鉄の育ち方まで知っているもんね。
根っこの傍に、葵の紋のついた笄(こうがい)を埋めているもんね。」
と言った「蘇鉄問答」があります。
薩摩藩は驚き、領地にかえって
薩摩藩の警戒を強くした逸話があります。
このような話を思い返すと
、岡山藩主が、後楽園に蘇鉄を植えるのも、背景が分かります。
藤棚の藤の花は、
今日の一雨で、いよいよ散ってしまいそうです。
花交の池です。
築庭当時は山桜などの入り交じった景色でした。
池辺には花交という名の建物があり、
池や滝にはその名が残っているようです。
今は、新緑の色の映る景色です。
梅林に来ました。
梅林は幕末近くなってできました。
今では紅白あわせて約百本の木が他の花に先がけて春を告げ、
詩歌の題材として好まれています。
梅林があったので、梅の実がついているか確かめて見ると、
梅の実が鈴なりです。
松葉博雄の御庭には、
梅の花は咲いても梅の実が成りません。
どうも季節変動かなと思っていましたが、
後楽園の梅の木を見ていると、
梅の木には、枝にカイガラムシが着いていません。
やはり、カイガラムシが梅の木の栄養を吸い取って、
そのため梅の実が成らないのだろうかと、
松葉博雄の仮説が、本当のように思えてきました。
帰って調べてみると、本当でした。
カイガラムシが、木の栄養を吸って、
枝や葉の出方が悪くなったりするそうです。
さらに植物にとって大切な、
光合成も妨げられてしまうようです。
新緑の向こうに黒壁の岡山城が映えます。
離れた場所から見た、流店です。
今も、誰かが休憩して足を休めています。
池の真ん中に浮かぶのは、中の島です。
池を巡って歩いていると、時々、
池の淵に錦鯉がやってきています。
松葉博雄は、全日本愛鱗会で、
錦鯉の研究をしたことがあります。
幼い子ども達を連れて、
錦鯉の品評会に、出かけたこともあります。
錦鯉を育てるには、かなりの条件が必要です。
当然、池と水です。鯉にとって、
住みやすい池と、環境によい水が必要です。
そうなると、自然環境のよい地方の田園地帯や、
湧き水の綺麗な所、
土地の広いところ、
自然の餌が集めやすいところなどが、条件になってきます。
後楽園は、錦鯉にとってみたら、
住みやすい環境なのか、
鯉に聴いてみたいものです。
後楽園名物の「元祖・あんいりきびだんご」の屋台がありました。
松葉博雄は、あんこが食べられないので、遠くから見るだけです。
後楽園の庭園からは、
岡山城が色々な方向から見られます。
周りに高層ビルがないのが、
お城を美しく見せるには、よいと思います。
時々振り返っては、岡山城を確認し、写真に残しています。
苔庭です。
苔のお手入れは大変です。苔と言っても、
日本だけでも約2000種類が存在していて、
それぞれに生育環境も異なります。
苔を日本庭園で美しく維持するには、
落ちてきた枝や葉っぱも拾わなければなりません。
鶴舎です。
昭和31年、岡山の旧制第六高等学校に学んだことのある
中国科学院の郭沫若(かくまつじゃく)氏から、
戦後途絶えたままであったタンチョウ2羽が贈られました。
郭沫若さんの失敗は、
つがいと思って送った二羽のタンチョウ鶴が、
雄雌でなかったことです。
そこで、他の所からカップリングをして、
今の子孫を作っているそうです。
このタンチョウ鶴は
、毎年お正月に後楽園の御庭に放されます。
どのような調教をしているのか、
放鳥されたタンチョウ鶴は、お城の高さまで飛遊し、
ちゃんと戻ってくるそうです。
2011年の新年には、恒例のタンチョウ鶴の放鳥は、
鳥インフルエンザの影響を考えて、
取りやめになったそうです。
郭沫若(かくまつじゃく) 氏の詩碑。
1955年(昭和30年)。
後楽園仍在(後楽の園はなほあれど)
烏城不可尋願(烏城尋ぬ可からず)
将丹頂鶴作(願わくば丹頂の鶴をもって)
対立梅林(作対して梅林に立たしめん)
2011年5月11日(水)