沖縄 訪問:神戸・三宮さんプラザコンタクトレンズ|松葉博雄の社長研究室
沖縄 訪問:松葉博雄の沖縄研究室

 

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沖縄 訪問:沖縄訪問のはじまりは1967年です。沖縄訪問は琉球政府の時代からです。
〜琉球政府の沖縄石垣島へパスポート入国審査を受け上陸、沖縄の美しさに感動〜


沖縄訪問のはじまりは1967年11月です、初めて沖縄訪問したときは、沖縄は戦後のアメリカによる統治下にあり、琉球政府の通貨は米国ドルでした。

アメリカ軍によって琉球政府が創設され、日本本土とは分離した行政機構をもっていました。

沖縄訪問でわかったことは、車はアメリカ流に右側通行、切手は琉球政府の発行する切手でした。

沖縄訪問のため、神戸から出港した船は、途中、瀬戸内海、鹿児島、奄美大島、沖永良部島の奄美列島を経由し、那覇の泊港に入港しました。

沖縄訪問のために、沖縄に上陸するにはパスポートがいるのです。入国審査を受けてパスポートにスタンプを押してもらい、そして沖縄に上陸できるのです。

最初の沖縄訪問当時のパスポートが残っていれば・・・、と思い探してみましたが、あまりに長い時間が経過し、沖縄訪問で使ったパスポートは昔の思い出のように流れて去って行ったようです。

しかし、沖縄訪問で写した時の写真が見つかりました。沖縄の海の玄関口、泊港に停泊した大島海運の貨客船の写真を写していたのです。
沖縄本島には短い滞在で、すぐに沖縄本島から離れた石垣島に向かいました。はじめての石垣島訪問です。

石垣島では色々と石垣島の観光に回ったのですが、これも写真があまり残っていません。

ブラブラと石垣に囲まれた、集落の中で散歩をしているときの民家の写真が残っています。

今見ると民族博物館に展示されているような石垣島の民家です。石垣島の民家は、ごく普通にそこらかしこに建っていました。

石垣島は猛烈な台風の風を受けるため、かやぶき小屋でも屋根は竹を使い、紐でくくり、しっかりと防風対策をしています。

石垣島の民家の垣根には、初めて見るブーゲンビリアやハイビスカスの花が咲き、これが南国か、と美しい花に感動しました。

石垣島の川平湾に行く途中では、草原には水牛が放牧されて本土で見る牛とは、色といい角の形といい大きな違いに驚きながらも、ついちょっかいを出して草を摘んで牛に誘いをかけてみました。


 

石垣島の由来は、台風に備えて家の周りに石垣を積んでいる風景から「石垣島」になったのではないかと、容易に想像つきます。

集落の中で子供たちが11月でもシャツ一枚で遊んでいる中に入っていきました。沖縄訪問にはパスポートが必要であっても、沖縄は日本国内です。言葉はちゃんと日本語で会話できます。

石垣島の子供たちがお金の数え方を話しているのをそばで聞いていると、一銭、二銭、十銭と呼んでいるので、最初は何のことかわかりませんでした。確か一銭は明治の時代の筈、と考えていたら、わかりました、わかりました。

1ドルの100分の1が1セントです。この「セント」を「銭」に聞こえたのです。「セント」と最後まで言わないで「セン」だけだったので、わからなかったのです。

石垣島の民家の前の道端に座り込んで、縄を使って子供たちは時間を忘れて遊んでいます。私はその中に少し大人の感じで入り込んで、子供たちの遊んでいる様子を見ながら少しずつ打ち解けて話を聞いています。

後ろには風除けの石垣が積み上げられ、その後ろには民家があります。家の庭にも暴風林が植えられ、日常生活の中で台風への備えが伺えられます。

ちょっと庭からおうちの方に声をかけても、石垣島の人は気軽におうちに入れてくれます。

本土の神戸から来た事を言えば、縁側に座ってお茶も出していただき、もてなしてくれました。

「芭蕉布」の歌の歌詞にあるように、

〜 海の青さに 空の青
南の風に 緑葉(みどりば)の 〜

このイメージに、私は魅了されてしまいました。

気候の暖かさ、人情、食べ物、草や花の美しさ、エメラルドグリーンの海、砂浜、寂しそうな三線の音や、うきうきするような太鼓の音、目に見えるもの、手に触れるもの、口に味わうもの、耳に聞こえるもの、肌に感じるもの、鼻に匂うもの・・・、沖縄の色々なものが私を魅了し続けます。

1967年から既に60回以上は、本島をはじめ、周辺の離島、八重山諸島、石垣島、西表島、など、ほとんどの島を訪れました。沖縄を好きになったのは、最初のこの出会いからと思います。

沖縄訪問はこの後どんどん続いていきます。

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