松葉博雄の社長研究室
松葉博雄のインド巡礼記
鷲霊山での瞑想:インド巡礼記 第14話

【グリドラクータ(鷲霊山)】
次に訪れた場所は、昔の政治文化の中心として栄えたマガダ国の盆地に位置する王舎城の丘の一つである鷲霊山です。ここは、かってブッダがその教えを説いたところですので、ここに来るまでに学んだ、松葉博雄のブッダの研究をおさらいしてみます。
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(心の問題)人生には重要な問題があります。 それは、心というものに対する定義です。 「心とは、いったい何でしょう」? 喜びや悲しみ、怒りや悔しさといった感情は、いったいどんな心の働きによって生じるのでしょうか。 いけないこととは分かっていても、つい「嫌な奴」と相手のことを憎んだり、嫉妬したり、怒りに胸を震わせたりするのはみんな心の働きです。自分でもコントロールできない心の働きを無意識の心と捉えています。 ブッダはこの世の中を四つの理(ことわり)に分けて考えるように説明しています。 この “苦集滅道(くじゅうめつどう)は四つの正しい真理と説かれています。 |
この真理を説くために、マダガ国で、ブッダはしばらく止住しました。
麓から鷲霊山の山頂に続く道を、「ビンビサーラ王の道」と呼ばれています。

私の頭の中には、何かモヤモヤとした考えが浮かんでみたり、否定してみたりと、自問自答していました。ブッダの言葉が、やや関西弁で聞こえてくるようで、その言葉と自分の考えとが、私一人にだけ聞こえてくるようでした。
それは、これまでに続いている数々の疑問でもあります。ブッダは私に声かけてきます。
「あんたは、ここまでよう来たなぁ。それはえらいことやけど、そやけどもっともっとしっかり考えんとあかんで」
「すいません。いろいろ足りないことはあると思いますが、私は真理を求めてここまで来たので、何かためになることを教えてください」と、つぶやいてみます。
そしたら、私のブッダはこう言います。 「人生は苦しみに満ちていて、それを避けるために何をしたら良いのかと、考えるように教えた積りなのに、正月の初詣からして、なにかご利益ばっかりを期待して、勉強しないで合格を期待するようなもんと違うか? あんたらのインド巡礼のことやけど、まず子供に嘘付いて象の玉子をお土産にするから待っててやと言ったやろ。あんな嘘を子供に言うたらあかんで、それで結果だけ期待してるのは、ちょと虫が良すぎるわ。」と、まぁこんなことを私の頭の中では、ブッダとやり取りをしていました。
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ブッダの教えは続きます。私たちのこの人生とはいったい何でしょう。生きるということは、どういうことなのでしょうか。生きるというのは、光かがやくことですか。幸福を噛みしめることですか。この世は納得のいかないことの連続なのではないでしょうか、とこのように問いかけて来ます。 人の一生はその自分の一生を終えるまで、苦労というものがつきまとってくるのです。 徳川家康は、「人生は重荷を背に負って、坂道を歩むが如し」と、喝破しています。 苦集滅道はブッダの教えのなかでも、基本的な大切な部分のようです。 四つの真理のうちでもいちばんはじめに出てくる苦は、この世を生きる現実を認識する上において、きわめて重要な真理のようです。 |
ブッダとのやり取りから覚めて周りを見れば、日本の日蓮宗の教団が山頂に立てた白亜の立派な寺院があり、そこまでリフトが続いています。
観光客や土地の人は、列を作って待っていましたが、私たち一同は歩いていくことにしました。
100メートルぐらいと聞いていましたが、足が重くなるほど歩きました。この道は白い寺院への道と違って、本当の「鷲霊山」への道で、途中、白い橋になんと漢字で「鷲霊山」と書いてあります。
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四苦とは、1)生きること、2)老いること、3)病気になること、4)死ぬこと、即ち “生老病死(しょうろうびょうし)”のことをいいます。 さらに 5)愛しい人との別れを指す “愛別離苦(あいべつりく)”、6)苦手な人や嫌いな人間とのつき合いなどを指す“怨憎会苦(おんぞうえく)”、7)欲しくて仕方のないものがどうにも手に入らないことの苦しみを言う“求不得苦(ぐふとっく)”、8)人間の生きていること自体が苦しみであるという “五固執蘊苦(ごこしゅううんく )” を合わせて八つの苦しみが人間にまとわりついているとブッダは言うのです。 ブッダはこの四苦八苦などの苦しみには必ず原因があって、その原因を認識しないかぎり苦しみから逃れる術はない、という事を、真理として受け入れるように私に言うのです。なるほど!「そりゃそうだ」と、私も思います。 |
ありがたい聖地を一歩、一歩進んでいくうちに、橋を渡ると山頂に近く、大きな岩組みを利用して、釈迦の弟子達がいたと言われる岩の隙間があり、そこには東南アジアからの巡礼者が張ったという金色の張り紙が光っています。
我々をガードをするのが仕事だと言って、ライフルを持ったガードマンがずっとついて上がってきました。
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ブッダは更に私に言います。人間は自分や他人、さらにはこの世の中を自分の思いどおりにしたいという欲望に囚われていることから、苦しみを生みだしていることになるのだ。そのもっとも顕著な例は“生” への執着ではないのか?松葉君はこの事が分かりますか?と問いかけてきます。 何となくわかりますが、よくわかりませんと答えると、ブッタはやさしく語りかけるように、「人間はいろいろな欲望があるんだし、物質的なもの、経済的なもの、その他名誉や権力、食欲や性欲などもありますよ。この欲望実現のために松葉君も、人間みんな苦しみに取りつかれるわけだから、欲望は一方で人間の本来の姿を喪失させてしまっている。」と教えてくれました。 なるほど!渇愛に心が行って、人間の本質を見失うと悪魔が忍びよってくるとブッダは論しているんだなーと思いました。 |
鷲霊山の山頂には、下から見ると石で組んだ定石のようになっていましたが、石をひいた平坦なところがあります。
ここに祭壇らしいレンガ造りが設けられていて、そこは土足禁止で靴を脱いで上がりました。お線香を売っていましたが、ここではまず礼拝をします。
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教えを松葉流に整理すれば、苦(Dukkha)は、この世は常に変化しているというブッダの説いた諸行無常(しょぎょうむじょう)と諸法無我(しょほうむが)という概念です。 この世というと私たちはつい自分たちが生活しているこの地球だけを想像しますが、そうではなく、宇宙すべてが変化し続けているという意味と理解します。
私も皆さんも、は宇宙は永遠だと表現しますが、何となくわかった気でいるつもりですが、「永遠」とはどんなものでしょうか。 フィルムは一コマ一コマが微妙に変化しています。この宇宙の変化は何びとをもってしても、止めることや、自分の都合のいいように勝手に変えられるものではありません。変わることは、絶対なる法則なのです。 ところが人間という生きものは、変化という現象を嫌うもののようです。 変化に対してつい、不安になってしまうのです。人間が“今”というものに捉われ執着する所以(ゆえん )です。苦(Dukkha) は、こうした人間の満足が得られない世界のことを言っているようです。 |
ここまで巡礼に来た記念に、甲子園球児のように、石垣のない所の土をビニールに入れて持って帰ることにしました。私がしていることをアーナンダ氏がおかしいのか、ちゃかしてきます。
土を持って帰る事は、さっきのブッダの教えが、未だわかっていないことです。つまり、執着から逃れていないことです。
鷲の山という名は、鷲の形に似た岩組からきています。上から下を見ると平坦な谷のような丘があり、緑に包まれて美しい盆地です。
ここでブッダは瞑想に耽ったのです。ああ、どのような緊張感があったのでしょうか、。好奇心がかき乱されて来ます。
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アーナンダ氏が真似する瞑想を見て、想像してみました。
ブッダは、この宇宙の変化していく力こそ宇宙を構成していくエネルギーであり、そのエネルギーによって一瞬一瞬現れては消えていく現象を波動のようなものと看破したようです。 |
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ブッダは、こうした現実こそがこの世を動かしている真のすがたであり、そういう事実に相反する執着や欲望を棄てることができれば、悟りの境地、いわゆる涅槃(ねはん)その執着や欲望を断ちきる方法としての “道” を示しました。それが、“八正道(はっしょうどう)” という教えなのです。 |
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ブッダは、苦しみから逃れる方法は苦しみの渦中にある自分自身にしかないと言うのです。 人間が執着心に捉われ煩悩の業火に苦しめられるのは、この世の中が諸行無常であり諸法無我であることを理解しないからであり、その執着を断ちきったときはじめて涅槃の境地(悟り)に至るという安らかに生きるための方法をブッダ自らの経験で私達に残してくれたのです。 このように、ブッダの教えを松葉博雄なりに、この聖地である鷲霊山で、昔ブッタが土地の皆さんに話したときのことを整理してみました。当時、話を聞いた皆さんは理解できたのでしょうか? |
ブッダとのやり取りの続きです。この世には、さまざまな苦しみがあります。「四苦八苦」という言葉があります。
変わっていくものに対して人間が求めるものは、求めた段階でもうその対象たる物や事、人は変化してしまっているので、追い求めた人間はいつも不満で、満足が得られない状態に置かれてしまうののではないか?満足が得られないから、苦しくなっていくのではないか?
ブッダが私達を救うのではないのです。ブッダは自分が修行して結果得た真実の道、人間のほんとうの生きかたの実践方法を私達に勧めているだけなのです。