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阪神淡路大震災復興奮闘物語

「今を昔につづるスクラップ帳」

【7.阪神淡路大震災後 6日目:罹災規模の全貌が少しずつわかり始めました】

1995年1月22日(日)

(注)ここまで震災の記事を書いてホームページに掲載をしましたら、取引先のメニコン社のIさんから震災当時の新聞のスクラップと「あさひグラフ」緊急増刊の資料の提供をいただきました。

震災当時は新聞が止まっていましたので、私自身読んでいなかった記事を10年後の今改めて読みなおすことができました。

スクラップノートを開けて記事の一つ一つに目を通せば、改めてあの時の悲惨な状況が思い起こされます。Iさんのご好意により、震災復興マーケティングの参考資料が充実できました。この資料を掲載させていただきます。ありがとうございました。

 


電話連絡によって、少しずつ安否の確認が進んでいきました。

長男が今日が高校入試の日です。震災の対応に追われ、励ましてあげることも何かをしてあげることも出来ていません。電話もないので連絡も出来ないまま今日の日を迎えました。

新聞ではこの時点で死者は4984名と報道されて、さらに行方不明者もあり、もっと増えるかもしれません。

【1995年1月22日付読売新聞より】
 
電気は少しずつ復旧し始めています。JRの須磨から西明石までの区間は23日には復旧・開通します。甲子園口から芦屋までは25日に開通する予定になっています。芦屋から須磨までが依然として復旧の目処が立っていません。今日からこの不通区間は電車の代わりに代替バスがJR、阪急、阪神により運行されます。

【1995年1月22日付読売新聞より】
 


【1995年1月22日付読売新聞より】
この日は、無情の雨が、震災の避難民の人たちに降りかかりました。地盤が弛んでいる箇所もあり、雨が土砂崩れを起こす元凶となることもあります。

【取材ノート】

女子従業員Oさんの震災体験談です。Oさんは当時、12歳の小学校6年生でした。

12階建てのマンションの11階に住んでいました。突然、部屋のピアノが倒れ掛かり危うく圧死するところでしたが、幸いにも雑誌を積んでいた隙間に助けられ一命を助かりました。隙間から自力で脱出し、お母さんのいる部屋に思わず暗がりの中で助けを求めて行きました。

マンションの人たちはわけのわからないまま戸外に出て、広い駐車場に自然に集まってきました。その辺にある着るものをいっぱい着込んで寒さに対処していました。

しっかりした人がいて、12階から1階まで火の用心のために、1戸1戸ガス栓を締めているかを確認して回っている人もいました。私は、こんな時に周りのことを考えられる人がいることをすごいなと思いました。

地震のときに本能的に注意をしないといけないことは、火の用心をすることです。この少女の住居地は垂水区の舞子でした。冷静に沈着に対処することで地震から起きる二次災害が予防できたことがわかります。

【この日のドキュメント】 (読売新聞より抜粋)
03:05 神戸市内に雨が降り始める。
11:10 兵庫区の湊川公園で、屋根を覆うビニールシートの配布が始まる。前夜遅く岡山・滋賀県から送られた約1000枚に市民の列。1人1枚に制限したが、約1時間で底をついた。
13:00 神戸市東灘区の市立住吉小体育館に電気が通じる。5日ぶりのテレビのニュースに避難者は「これでひと安心です」
13:08 地滑りの危険性が高まる東灘地区西岡本地区。高台の住民は全員退去。
13:10 追い打ちの雨。芦屋市奥山浄水場の職員は「芦屋川の取水口が壊れているので、水は流れ出すばかり」
15:25 芦屋市内で雨脚強まる。
16:45 神戸ポートアイランドの高層住宅街で給水車に住民の列。
16:50 神戸港の六甲アイランドは、ほとんどの岸壁が崩れ、船もトラックも近づけない状態。
19:10 前日(21日)からガスが使えるようになった西宮市の満地谷火葬場で、11基の炉が動き続ける。犠牲者をだびに付していく。悲しみの煙は深夜まで。
00:33 北淡町で震度4の余震