災害支援 急ぐ災害支援 遅れる災害支援 震災後35日~39日目(№23)

災害支援要請 コンタクトレンズとケア用品を失って困っている方への支援を、メニコン、ジョンソン・エンド・ジョンソ、チバビジョン、ボシュロムへ依頼しています。

遅れる災害支援 退職手続きの遅滞

震災後やむをえず退職された方、避難された方に対する離職者の手続きを今日から始めました。

罹災して神戸を離れた退職者の方は、実家に帰って平穏な生活に戻っているので、失業保険の給付を急いでいました。

ところが、神戸の職業安定所も罹災して大変な被害状況でした。

実際のところ失業保険の給付の業務はしばらく機能停止していました。


≫崩壊したさんプラザビル【神戸新聞社刊『阪神大震災全記録』より】」

神戸を離れて、実家に戻り退職手続きを待っている立場はとにかく早くしてほしいと電話での督促が毎日つづきました。

罹災した神戸では、通勤も困難な状況が続いています。

離職者と職場にはかなり温度差ができてしまい、いかんともしがたい状況でした。

 


≫イメージ画像:阪神三宮駅(神戸新聞社刊「阪神大震災全記録」より

通勤困難が改善されないと、公共機関も麻痺が続き、円滑な公共サービスがもとに戻るには、まだまだ日数が掛かりそうです。


急ぐ災害支援 コンタクトレンズ難民への災害支援

コンタクトレンズユーザーである罹災者に対するサポートの問題が山積みしています。

所謂神戸震災で生じたコンタクトレンズ難民です。

コンタクトレンズ難民救済のために、毎日のように主要なコンタクトレンズメーカーの取引先に対して、コンタクトレンズ難民の方に災害支援の物資を配りたいので支援物資を送って欲しいことを訴え続けています。


「イメージ画像:メニコン社の入居しているビルは文字通り倒壊してしまいました(神戸新聞社刊「阪神大震災全記録」より)」

急ぐ災害支援 メニコン田中恭一社長へ災害支援を直訴

メニコン社には電話で田中恭一社長へ直接、災害支援をお願いしました。

メニコン神戸営業所は入居していた柏井ビルが倒れてしまったので、神戸の活動拠点を失ってしまっていました。

そのため、神戸市民のメニコンユーザーへの災害支援が出来なくなっていました。

それなら、わが社がメニコンの代わりにメニコンユーザーへの災害支援を行います。

支援して欲しいのは罹災したメニコンユーザーへ、メニコン製品で困っていたら、わが社が相談窓口になることを伝えるための告知広告を氏てほしいのです。

突然の震災が起きた中で、レンズを失った方やケア用品が欲しい方は、今どこに購入に行けばお店が開いているのか、これまで買っていたお店はどこに移転しているかの情報提供が必要なときでした。

遅れる災害支援

メニコンは困惑していました。

我が社がメニコンユーザーの救済をしてほしい気持ちはありました。

しかし、他方でこれまでのそごう、大丸のメニコン代理店からの反発を恐れていました。

非常時なので、取引先への配慮よりは、コンタクトレンズ難民の救済を優先して欲しかったのです。

神戸市の市民の皆さんはコンタクトレンズの使用に対して困っていました。

救済対応の窓口として「さんプラザコンタクトレンズが市役所の近くで復興しているので、そちらのほうがメーカーの窓口としてご相談に応じますから、そちらに行ってください」という案内広告を出して欲しかったのです。

 

メーカーは迷う災害支援

ジョンソン&ジョンソン、チバ、キヤノンにも同じような広告支援をお願いしました。

各社ともなかなか慎重です。

ジョンソン&ジョンソンは特に慎重で、仮設店舗構築にも災害支援が得られませんでした。

自社の顧客を救済することも、なんらかのケア用品を提供するような支援活動をしたいことは山々でした。

しかし、さんプラザコンタクトレンズだけに災害支援するのは後日の批判を恐れているのです。

しかし、今この大震災の中で復興に立ち上がれた者がその代理をするべきだと思います。

誰を選ぶかというよりも、復興のために努力をすると手を上げた者に、復興支援を託してくれたら一生懸命やるのに、と残念に思いました。

 阪神淡路大震災35日目:1995年2月20日(月)


 


「当日の毎日新聞より」

災害支援 迷うボシュロム

ボシュロムの城下専務、村松所長がお見舞いに来られました。

混乱する市場のなかでボシュロム社の製品を求めている方も、たくさんおられました。

ボシュロム社の窓口となって震災の支援活動ができるチャネルは、現在のところ我が社しか三宮にはいません。

このことをボシュロム社にうったえて、ボシュロム社の愛用者の方々への支援の窓口となる意思を伝えました。

本社と相談してみるということになりました。

阪神淡路大震災36日目:1995年2月21日(火)


災害支援 アメリカからジャズ楽団

今日は嬉しいことに久しぶりに音楽を聴くことができました。

奥さんと一緒に行って、前のほうでジャズを聞きました。

黒人の奏者のトランペットの吹く音がすぐ間近に聞こえ、奏者の頑張れよという目が私にウインクしているように見えました。

とても上手な演奏で、もちろんセントルイスブルースもありました。

元気をつける曲として、「on the sunny side of the street」、「聖者の行進」などのおなじみのジャズが私の耳だけでなく、腹にも響くように聞こえて、とても元気をいただきました。

遠くアメリカのセントルイスから自費で神戸までやってきて、一生懸命励ましてくれるのですから、曲は熱いものを感じます。

チャリティーコンサートなので、入場料は無料です。

コンサートへのお礼を含めて、帰りに募金箱に志しとして自分で支援できる義援金を入れて帰ることになっています。



【イメージ画像】2005年1月13日放映読売テレビより

阪神淡路大震災37日目:1995年2月22日(水)


災害支援 チバビジョン メニコン 東レ

チバの杉山部長が来られました。

チバ社にも、チバの愛用者のなかでレンズやケアに困っている神戸の罹災者の方に、さんプラザコンタクトレンズが窓口になることや、チバ社の製品に

関する問い合わせや必要なクリーナーなどの無料配布を行うことを提案し、復興を告げる新聞広告をどのように行うか打ち合わせをしました。

メニコンの河内部長、菱田所長とも、話をしました。

メニコン社としては、眼科の先生方の要望に沿った復興支援をしたいようでした。

東レの小野部長とも、どのように告知活動をするかという話しになりました。

東レとしては、神戸の顧客のなかで困っていらっしゃる方はどこに頼ればいいか、なんとか早急に案内広告を出したいという希望でした。


退職 社員募集 面接

辞めていく従業員が多い中で、人事募集の面接がはじまりました。

男子の2名を面接し、採用することにしました。

これまで一緒に仕事をしてきた頼りにしている女性社員のうち、また一人が退職の辞表を持ってきました。

この一ヶ月あまりの間、いつ辞めようか、いつ社長に言おうか、とかなり悩んでいたようでした。


携帯電話が届きました

携帯電話が届きました。セルラー電話です。

およそ10万円かかりました。番号は030-70-28468でした。

これをどのように覚えるかを工夫してみました。

030は当時、当たり前でしたので、これは無条件に覚えます。

70は70倍に置き換えます。284は「増やせ」と読みます。

68は「ろっぱ」君に替えます。

これを一つの意味に置き換えると、「70倍に増やせよ、ろっぱ君」と読めます。

なかなかいい番号でした。

阪神淡路大震災38日目:1995年2月23日(木)


今日はあまり大きな変化もなく、記事はお休みです。

阪神淡路大震災39日目:1995年2月24日(金)

             2019年1月 加筆 更新


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