日帰りツアーで思うことは、織田信長の志半ばの無念さです。安土城は落城に泣いています。安土城は、再建を望んでいます

日帰りツアー【近江八幡(6)】

2010年5月14日(金) 今日のお天気は、少しどんよりとした雲がかかり、気温はやや低く、これから水郷めぐりで舟に乗るには、やや寒いかもしれません。

安土城

安土城

最初の見てまわるところは、「特別史跡安土城跡」です。安土城は、織田信長が天下統一を目標に、天正4年(1576年)に標高199メートルの安土山に築城しました。

安土城

これは、小学校の歴史の授業で知っていますが、実際にお城に登るのは初めてです。安土市でも、安土城跡の調査は、これからという段階で、安土城が落城した後、安土城は歴史から、しばらく消えています。

安土城

安土城は、岐阜城よりも京に近い利便性があり、北陸・東海の要所でもありました。現在は、四方とも干拓により陸地となっていますが、当時は琵琶湖の内湖に囲まれて、南方のみが開けた地形だったそうです。

安土城

天守閣に向って、石の階段を上り始めると、織田信長からお城の中の屋敷に住むように、徳川家康、豊臣秀吉、柴田勝家らの武将達の屋敷跡があり、足を踏み入れてみると、それぞれが広い敷地でした。

安土城

安土城の悲しい運命ですが、築城から3年後の天正7年に、日本で初めて天守閣を持つ安土城が完成しましたが、天守閣完成から3年目の天正10年(1582年)には、中国毛利への出陣途中の明智光秀の謀反により、織田信長は京都の本能寺で自刃しました。

安土城

安土城

その数日後、天守閣などを焼失し、一夜のうちに落城してしまいました。原因は、織田信雄が誤って焼き払ったという説や、脱走する明智光秀軍による放火という説などが有名です。

安土城

歴史の後から、「もし」、「たら」と、思ってみても、どうにもならないことですが、もし、織田信長が天下統一の前に亡くなっていなければ、安土城はその後の、天下の中心になったかもしれません。

安土城

お城のだいたいの配置を考えるのを、縄張りと言いますが、安土城の縄張りは、丹羽長秀なので、大きな構想でお城が造られていることが、歩いてみても分かります。

安土城

安土城

天主は、背丈ほどの高さの石垣に囲まれて、四方が約28メートルの台地にありました。

安土城

今は礎石が1.2メートル置きに整然と並ぶだけですが、この部分は天主の穴蔵(地階の部分)にあたり、その上にさらに大きな天主がそびえていたそうです。

安土城

五層七階(地上6階地下1階)の天主は、高さ33メートルの木造高層建築で、当時では日本で初めてのものでした。

安土城

内部は、織田信長の御用絵師・狩野永徳の豪壮な障壁画や装飾が配されていたそうです。これが焼けたのは、実にもったいないと思います。

安土城

天守閣跡のさらに、ひとつ高いところに、その後伸びた樹木を伐採し、琵琶湖の方が見えるように、視界を広げた場所があります。

安土城

崩れた石垣が集まったところです。石垣に腰を掛け、周りの景色を見回し、しばし、織田信長がこの場所から見た景色を、およそ430年後に、松葉博雄は見ています。

天守閣の跡の礎石から、頭上に向ってカメラを向けてみると、頭上には、天空があり、ちょうどヘリコプターが爆音を立てて、飛び去っていきました。

安土城

天主から大手道を下っていくと、摠見寺(そうけんじ)がありました。

安土城

摠見寺は、臨済宗妙心寺派のお寺です。安土城築城の際、織田信長が他所より移築し、安土城本丸の西方の峰に自らの菩提寺にしたと言われています。

安土城

安政元年(1854年)の火災で本堂などはほとんど消失し、今は礎石のみが三重塔の北に残っています。

安土城

この三重塔は、三間三重の塔で、屋根は本瓦葺きです。天正3~4年に織田信長が甲賀の長寿寺から移建したものとされています。

安土城

三重塔の手前の広場から、琵琶湖に続く水郷の方を見れば、これから行く水郷めぐりの全体像が、なんとなく見えました。

安土城

安土城

安土城を見学した後は、日牟禮(ひむれ)八幡宮の方に行きます。