与論島 JAS「コーラルアイランド」のポスター、与論城、地主神社、 第102回沖縄訪問(16)

与論島 JAS「コーラルアイランド」のポスター、与論城、地主神社、口之津移住開拓民之碑、満州与論開拓団之碑を見ました。
【恩納村前兼久から南へは豊見城市・糸満市・南城市、北へは与論島を駆け回りました その16】

与論島に上陸した昨夜は、

与論島のネオンのない、

真っ暗な夜空に輝く星を見て感動した後、

黒糖焼酎「有泉」で酔っぱらって、

寝てしまって、覚めた翌朝です。

ちょっといつもより早く目が覚めて、

清々しい気持ちになったので、

民宿「星砂荘」の付近を散歩してみました。

周りはさとうきび畑ばかりです。

さとうきび畑の向こうには、

風力発電所の羽根車が見えます。

朝の8時ちょっと前の与論島の朝です。

民宿の廊下に張ってあった、

等身大ほど大きなポスターには、

昔懐かしいJASの「コーラルアイランド」の

宣伝写真がありました。

この写真は、以前、見たことがあります。

この「コーラルアイランド」の写真が

旅行社に掲示されていた頃は、

与論島に行きたくて行きたくて、

たまらない時代でした。

散歩が終わると、朝食です。

民宿が付近の景色の中で、

大きな建物であることが分かります。

なぜ民宿は、こんなに大きくなったのか、

女将さんに聞きました。

NHKの「新日本紀行」の番組で、

ある日、突然与論島が紹介されたことで、

都会からどんどん若い人達が

与論島を目指してきたそうです。

それまでは、与論島では、

民宿があまりなく、若者を受け入れるために、

民宿経営に転換したお家が続き、

その中でも、経営に着目した民宿のオーナーは、

宿を拡大し、部屋を増やし、

どんどん広くなっていったようです。

ところが、いつまでも与論島ブームが続くわけもなく、

沖縄が返還されると、

沖縄の方に目が向いて、

以前ほどは、民宿客が集まらなくなったようです。

似たような例を民放テレビ局が放映した

「愛の貧乏脱出」で見たことを思い出します。

テレビでお店が紹介されると、

当日からビックリするぐらい

お客さんが行列を作り、繁盛店に変ります。

でも、いつまでもテレビの放映効果が続くわけでもなく、

後は経営者の腕次第です。

「星砂荘」の周りには、ハイビスカスが咲いています。

綺麗なハイビスカスです。

8時ちょっと過ぎた頃、朝ご飯を頂きます。

スターフルーツ、パパイヤの料理が出ました。

食事の後は、

「星砂荘」の庭で民宿の経営者の家族と、

片山正喜さんの愛犬リーを囲んで、

みんなでひなたぼっこをしながらの団欒です。

オーナーの永井新孝さんは、

あいにく出張中でした。

留守を守る女将さんとお嬢ちゃんとの団欒でした。

片山正喜さんは「星砂荘」に何度も来ているので、

民宿のお嬢さんと顔馴染みです。

民宿を出て、与論島の観光にまわります。

民宿は、夕ご飯と朝ご飯が付いて、

1泊5000円でした。

与論島には、高い山はありません。

港から見える一番高いところは、

城(グスク)で、地主神社があります。

海抜100メートルそこそこの平らな島ですが、

地主神社からは、与論島の全体を見渡すことが出来ました。

地主神社の鳥居をくぐって、

奥に入っていくと、土俵があります。

この土俵も、以前に与論島に訪れたとき、

写真に写していました。

土俵は、当時は出来たばかりで、

陣幕を張って、

島での相撲大会があったようです。

昔の土俵の写真と、

今の土俵の写真を比べてみても、

それほど大きな差はありません。

しかし、この土俵の写真を見るまでは、

以前にこの土俵を見たことをはっきりと覚えていませんでした。

与論島のお城の敷地には,

神社があり、お墓があり、記念碑があり、

沖縄本島の最北端である辺戸岬に向かって、

ヤンバルクイナが友好の絆として像が建てられています。

ここの神社は、元々の与論島の城の跡に建てられています。

ここからの周りの景色が、素晴らしく見えます。

ハングライダーに乗って、

ここから飛び出せば、

素晴らしい風に乗れそうです。

与論島には、そんなに高い山はありません。

ここが一番高いところです。

城から見た、与論の周りです。

島の畑を見れば、

一つひとつの畑が小さく区切られています。

きっと、代々に渡って、

子孫に畑を引き継いでいくうちに、

兄弟が多いと、田を小さく分けて

贈与したのではないかと思います。

昔は、田を分けることを「たわけもの」と言い、

してはいけないものと、注意されていました。

しかし、兄弟が多ければ、

お兄ちゃんだけがひとりで

相続するというわけにはいきません。

でも、あまり畑を小さくすると、

一軒の生計が成り立ちません。

与論島は、太平洋戦争では、

戦場になっていませんが、島の人口が増えて、

食料が供給出来なくなる、

天候による飢饉が起き、大変な生活苦がありました。

蘇鉄の実でさえ、食べたと言われています。

そこで、島民の移住を促進した時代がありました。

記念碑には、

九州の長崎県口之津の炭坑に移住した時の記述や、

満州に移住したときの記述がありました。

とても苦しい時代が想像できます。

記念碑に黙祷して、次の場所に行きます。

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2008年12月3日(水)

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