メニコン田中恭一会長ご夫妻の訪問を、歓迎しました。

さんプラザコンタクトレンズが1971年に創業したとき、最初の取引先は、東洋コンタクトレンズ(現メニコン)でした。  メニコン田中恭一会長ご夫妻来社(1) 社長ブログ神戸/取引先/メニコン/メニコン田中会長

メニコンスーパーコンサート『あしたの瞳』神戸公演の観劇に、田中恭一会長と、奥様の正子さんのご夫妻が、田中英成社長とご一緒に神戸に来られて、田中恭一ご夫妻は神戸に宿泊され、今朝我が社に表敬訪問に来られました。

まずは、田中恭一会長と並んで、記念写真です。

2015年8月に、田中恭一会長が私のために特別に描いて下さった、達磨大師『啐琢(そったく)の機』の絵を挟んで、並びました。

昨夜は、よく眠れましたか?とお尋ねすると、

田中恭一会長は、久し振りにぐっすり眠れたと言われ、今朝はとても体調が良いようです。

会長夫妻がご一緒に得意先を訪問することは、これまでなかったそうです。

田中恭一社長が、20代で東洋コンタクトレンズを設立したとき、それはお二人が結婚して間もない頃で、今からおよそ60年前ほどの事ですが、その頃ご一緒に得意先に集金に訪れた事があるそうです。

それから60年、今日はお二人揃ってのご訪問なので、松葉博雄も緊張しながらお迎えをしています。

何しろ田中恭一会長は、日本のコンタクトレンズ業界では神様のような存在なので、今日のこの機会にしっかりとお話を聞かせて頂き、後世に伝えたいと思います。

コンタクトレンズ業界の研究は、大阪市立大学大学院の時に、メニコンを中心とした研究をしました。

まずは、さんプラザコンタクトレンズが1971年に創業して、それ以来メニコンとの取引関係が長く続いてきた経歴を話しました。

45年もの長きにわたる取引関係で、今日初めて、創業者の田中恭一会長夫妻をお迎えできる事を、我が社全員が心より歓迎している事をお伝えしました。

日本のコンタクトレンズは、1950年代のハードレンズから始まっています。

メニコンのコンタクトレンズは、名古屋から始まり、西へ東へと、営業所が広がっていきました。

大阪営業所が、関西一円を担当していて、我が社が最初にお世話になったのは、大阪営業所の塚本弘昭さんが所長だった時代からです。

1960年から1970年代では、京都・大阪・神戸でのコンタクトレンズの販売は、普及が始まったばかりで、京都大阪は、地元の眼科の先生がいち早く法人化して、メニコンのハードレンズを販売していました。

神戸は、眼科医会の規制が強く、その中で、コンタクトレンズの普及に努めたのは、一部の眼科と、百貨店にテナントとして入っていた眼鏡店でした。

会社設立当時の頃の話しから、家庭の話に変わります。

昨日のメニコンスーパーコンサート『あしたの瞳』では、会長夫人の正子さんも、オペラの中で登場人物になっていました。

若き日の田中恭一さんが、コンタクトレンズを自分ひとりの力で作ろうとしたとき、その材料となる合成樹脂を使うように提案したのが、会長夫人である正子さんの役割になっていました。

このストーリーは、実際はどうだったのでしょうか?

奥様に直接、お話を伺ってみました。

奥様のお話では、お二人の馴れ初めは、ミュージカルで描かれていた、若き日の発明家に材料を探し出して提供する、コンタクトレンズが生まれる一助を担った役割とは違ったそうです。

それはそれでいいのです。現実のままでは、オペラも芝居も、面白くなりません。

では、お二人の馴れ初めは、一体どんなだったのでしょうか?話しは続きます。

2016年7月15日(金 )