井戸寺の名前の由来は、弘法大師が水不足や濁り水に苦しんでいた住民のために、井戸を掘ったことからです。

四国八十八カ所巡礼では、薬師如来が本尊のお寺が多くあります。お寺は、民衆が自分の力では及ばないことを、お寺にお願いする所なので、代表的なお願いとなれば、今と違って、薬も医療施設もなかった時代には、病気を治してくれる仏様として、薬師如来におすがりしたのだと思います。 徳島 (6)

四国八十八ヶ所霊場 第十七番札所 井戸寺に来ています。井戸寺は、別名、瑠璃山、真福院と号しています。

本尊は薬師仏を中心に1体、左右に3体ずつ安置した七仏薬師如来で、聖徳太子作と伝えられています。

井戸寺公式ホームページに、井戸寺の歴史が記載されていました。

7世紀後半の白鳳時代は、清新な日本文化が創造された時期で、律令制もようやく芽生えて、阿波の国にも国司がおかれた。

この国司に隣接して、天武天皇(在位673〜86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であったという。

寺域は広く八町四方、ここに七堂伽藍のほか末寺十二坊を誇る壮大な寺院があり、隆盛を極めたと伝えられている。

本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、聖徳太子の作と伝えられ、また、脇仏の日光・月光菩薩像は行基菩薩の彫造と伝えられる。

のち弘仁6年(815)に弘法大師がこれらの尊像を拝むために訪れたとき、檜に像高約1.9メートルの十一面観音像を彫って安置されている。

この像は、右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶をもった姿形で、現在、国の重要文化財に指定されている。(以上井戸寺公式ホームページより)

『「お大師さまと雀」

乾天神地の間にある自然に生かされ お大師さまのおかげをいただき

三歳より踊り続けて七十年 ご縁がありましてお大師さま建立の発意

その折に東日本大震災がおこりました

かつてない困難のなかで 皆様の一日一日をだいじにと

小さな雀も願いをこめまして ここに建立させていただきます』と書かれています。

お彼岸の頃で、境内の片隅に、曼珠沙華の花が咲いていました。マンジュシャゲは、別名、幽霊花とも言われ、お墓の周りにはよく咲く花です。

空を見上げると、お堂の上に、素晴らしい、いわし雲です。

井戸寺の、名前の由来となった井戸が、祀られています。

弘法大師は、この村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。そこで付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたということでした。

真言宗のお寺を回ると、どこにもあるのが、水子供養です。それだけ、幼くして亡くなった子どもや、生むことが出来なかった悲しい理由をもつ人達が、沢山いたようです。

井戸寺の井戸の近くに、綺麗な水の池があり、鯉が餌を求めて寄ってきます。

井戸寺は、比較的お寺の境内がコンパクトにまとまっていて、山を登る階段や、厳しい石段は、ありませんでした。

入り口の山門で、奥さんに写して貰った写真です。

後ろには、南無阿弥陀仏と書かれているので、この白衣を着ていれば、行き交う人も、会釈をしてくれます。

もちろん、松葉博雄からも、行き交う人にご挨拶をして、何だか、ほのぼのとした気持ちになってきます。

井戸寺の山門の周りを、何度か行ったり来たりして、撮り残した場所はないか、確認をして、あれば写真に写して、ホームページに掲載しています。

井戸寺も、薬師如来をご本尊にしています。これまで回った、巡礼地のお寺でも、薬師如来がご本尊に祀られているお寺は、いくつもありました。

松葉博雄が思うのには、お寺は、民衆が自分の力では及ばないことを、お寺にお願いする所なので、代表的なお願いとなれば、今と違って薬も医療施設もなかった時代には、病気を治してくれる仏様として、薬師如来におすがりしたのだと思います。

お寺の役目には、依頼者からのお願いを、仏様に取り次ぐ、加持祈祷があります。

真言密教では、加持祈祷を積極的に行っています。

この中にも当然、病を治す、病気回復があります。これにも、薬師如来にお願いすることになります。

仏教の元祖、仏陀は、加持祈祷をしてはならないと、教えていますが、いつの間にか、ブッダの禁じた加持祈祷は、お寺の中でも大きな役割になっています。

2014年9月18日(木)