阿波の国、国分寺跡には、四国八十八カ所霊場 第十五番札の、阿波国分寺があります。

仏教に篤く帰依した聖武天皇(在位724〜49)は、天平13年に国家の安穏や五穀豊穣、政教一致、地方文化の向上などを祈って、勅命により全国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建したと記されている通りです。

松葉博雄と奥さんの、四国八十八カ所巡礼は、続きます。次は、 四国八十八ヶ所霊場 第十五番札所 阿波国分寺です。

札所寺院としては単に国分寺と呼ぶのが通例だそうです。

薬王山、金色院と号し、本尊は薬師如来です。

阿波国分寺公式ホームページに、国分寺の歴史と由来が記載されていました。

聖武天皇は、全国に国分寺を建立するよう、詔を出されました。その頃は、ご本尊は、仏教の元である、お釈迦様でした。ところが、後から続く高僧達が、思い思いのご本尊を奉じて、この国分寺も、ご本尊が、お釈迦様から薬師如来に変わってしまいました。

四国霊場には四県に国分寺があり、その最初の札所が「阿波国分寺」である。

仏教に篤く帰依した聖武天皇(在位724〜49)は、天平13年に国家の安穏や五穀豊穣、政教一致、地方文化の向上などを祈って、勅命により全国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建したと記されている通りです。

つまり、国分寺は、仏教のお寺だったのです。

奈良・東大寺はその総国分寺ともいわれる。

縁起によると、阿波国分寺には聖武天皇から釈迦如来の尊像と『大般若経』が納められ、本堂には光明皇后のご位牌厨子を奉祀されたと伝えられています。

開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としている。

創建当初は奈良の法隆寺や薬師寺、興福寺と同じ南都の学派に属する法相宗であり、寺領は二町四方で、ここに金堂を中心に七重塔も建つ壮大な七堂伽藍が整っていたそうです。

聖武天皇より後の時代の、行基は、ブッダではない、薬師如来を本尊にしています。これは、創業社長の企業理念を、後の役員が、変えるようなものではないでしょうか?

弘法大師が弘仁年間(810〜24)に四国霊場の開創のため巡教された際に、宗派を真言宗に改めています。

現代でも、松下電器や、ソニーは、創業者の一族から経営は移り、昔の松下電器でも、ソニーでもありません。やはり、歳月が、変えていくのです。

弘法大師から、1200年経過していますが、弘法大師の理念からは、1200年経っても変化していないのが不思議です。

このような、変わらない理念を続けていくのは、弘法大師の理念がしっかりしているからだと思います。

国分寺の中で、中心は、本堂です。本堂は、重層の入母屋造りで、文化、文政年間(1804〜30) に再建されたそうです。聖武天皇、光明皇后の位牌が祀られています。

国分寺には、すっかり仏教の開祖、仏陀(ゴータマ・ブッダ)の存在は、薄くなっています。

阿波の国分寺を、一巡しました。一巡すると、松葉博雄の奥さんは、納経所で、サインを貰うのが、通例になりました。

巡礼者の、共通したお経は、般若心経です。般若心経は、仏陀が弟子の、シャリープトラー(舎利弗)に向かって伝えた教えです。

日本の仏教の、いくつもの宗派で、共通する教えは、この、般若心経です。

納経所の近くを歩いてみると、立派なサボテンの木が、これがサボテンかと思う程、立派に生長しています。

塀の向こうに、綺麗な庭園が、広がっています。入って見たいものですが、扉が閉まっています。

真言宗のお寺を回ると、共通しているのは、お寺の境内に、蘇鉄の木が植えられていることです。

どうして、真言宗とソテツが繋がるのか、分かりません。

お寺の敷地の中には、このお寺を守る、住職の皆さんの住む場所もあります。

さすがに、国分寺となると、格式が高く、手入れもよく行き届いています。

国分寺は、国立のお寺のようなものなので、地域の住民が、自発的に建てたお寺とは、権威が違うということが分かりました。

 

2014年9月18日(木)