平成の前方後円墳 松葉博雄の記念モニュメント~ 第1話 ~ 「前方後円墳の構想」社長ブログ/研究ブログ/松葉研究/全国の松葉さん

平成の前方後円墳 松葉博雄の記念モニュメント~ 第1話 ~ 「前方後円墳の構想」社長ブログ/研究ブログ/松葉研究/全国の松葉さん

平成の前方後円墳を造るまでの沿革について、簡単に触れさせていただきます。

まず、この土地を選んだ由来からお話をいたしますと、この土地は松葉家と深い関わりがあります。

この土地については、「賀茂郡史-中世武士編-飯田米秋著」に、旧松葉屋敷跡の石垣のことが記載されています。

右の写真のように石垣が残されて、その上には旧松葉屋敷がありました。

1888(明治22)年、山陽本線の建設が始まりました。神戸から北九州市の門司駅に至る総延長534.4kmの大動脈です。

1892(明治26)年には、山陽本線が姫路、岡山、倉敷、福山を経て、三原までが開通しました。

三原から広島までの区間は、1892年から1894年までの間に工事がありました。※ 山陽本線路線データについては こちら

西へ西へと延びていく山陽本線の敷設工事は、とうとう松葉家の住居を突き抜けることとなりました。

東広島地区では、まるで西部開拓史のように鉄道は山をトンネルでくぐり、谷を鉄橋でまたぎ、人家を突き抜け、川に鉄橋を架け、西へ西へと延びて行きました。

「泣く子と地頭には勝てぬ」と言うように、国家的プロジェクトである山陽本線開通の公共工事の前には逆らえません。むしろ、山林、畑、家屋敷を提供し、レールが西へ延びるように協力しました。

この結果、松葉家の旧宅は人が住むことができなくなり、転居するに止む無きを得ました。

線路以外の屋敷跡とその周辺は、太平洋戦争の終戦後の農地開放や売却により、人手に渡っていました。一部残った土地も竹が生い茂り、石垣は崩れ、荒れるに任せていました。

1970年代に、地元の不動産会社の方から屋敷跡の土地を購入しないかというお話をいただき、幸いにも買い戻す事ができました。

山陽本線の列車は、明治の頃の煙を吐きながら長い上り坂を「なんだ ぽっぽ こんな坂 ぽっぽ」と走っていた時代から、今は電車に変わり、通勤電車、長距離急行列車、長い貨物列車が引っ切り無しに旧松葉屋敷の跡地の上を、大きな音を立てながら走っています。

およそ100年を経過しようとする現代に、再びこの屋敷跡をどのように活用して行けば良いのかを考えてみました。

鉄道が敷かれるまでは、ここは広島、西条、竹原、三原の各都市を結ぶ交通の要所でした。

後ろに山、前に綺麗な水の流れる川があり、鮎やうなぎなどの川魚が獲れ、飲料水にもなり、陣屋を構えるには格好の地形のようです。

ホタルも飛び交う静かな里であったようですが、 朝から晩まで電車が走りつづけていますので、住居にすることは、騒音と危険性の問題で難しいように思いました。

そこで、ここの石垣を残し、松葉家の祖先を顕彰するモニュメントを作ろうと考えました。

以来、構想する事20余年、いろいろと考えを巡らし、各地を訪ね、基本的な構想を徐々に築いていきました。

韓国の釜山に旅行をして仏国寺に参拝した時、深い感動を覚えました。

仏国寺の石窟に納められた仏像に大きく魅了されました。韓国では、墳墓も見学しました。

土を盛り、石室を造り、祖先を顕彰する事例を見て、段々と考えがまとまっていきます。

京都府与謝郡加悦町に「加悦町古墳公園」があります。

こちらを見学に行った時は、手頃なサイズの前方後円墳を見て、仁徳天皇の前方後円墳のように巨大でなくてもそれなりのモニュメントができることが分かりました。

さて、これをどのように具体的に設計するか、石室をどのように造るか、石仏は造るのか造らないのかなどの課題をこれから進めていくことになります。



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です