阪神大震災の非常事態のときの従業員の協力態勢 :阪神淡路大震災後18日目

阪神大震災から、2週間後、倒壊したさんプラザビルから神戸市役所近くの、今西ビルに移転です。

阪神大震災で、休止していた、販売活動を再開します。土俵ができました。これからは四股をいっぱい踏んで土俵に上がるぞ!というような闘志が湧いてきました。

「引越し後の整理 ~今西ビルにて~ 」

ビルがひっくりかえったからといって、重症を負って寝込んでいるわけでもなし、自宅や職場の近くで、たくさんの犠牲者の出たにも関わらずなんとか生きながらえたからには、これからは残ったレンズやケア用品を今も困っている被災者の方に配るぞと思いました。

これからも引き続き会社に出社して一緒に仕事を続けてもらえるスタッフは以前よりは半分以下になってしまいましたが、まあ少しずつ募集をしてスタッフを増やしていこうと思います。

しかしまだ、募集ができる状況ではないので、今はこれまでのスタッフに今後の協力をお願いすることになります。

少人数になったので、少ししんどいですけど、まあ残ったからにはみんなで一緒にがんばりましょう。



本当にラッキーだったのは、大切なレンズがほとんど無傷で残ったことでした。これもレンズを大事にして帰るときにはロッカーの中に仕舞い、外から鍵をかけていたからレンズは震災で揺れてもロッカーから飛び出さなかったおかげです。

普段からレンズを大切に扱っていたことが報われました。これを今困っている人たちに提供するには、これからの告知活動をどのようにするかという問題があります。ちょうど新規開店と同じような状況におかれています。


できるだけ皆さんには早く来て、遅くまで仕事をして、復旧のテンポを上げたいのですが、そうは言っても、交通手段がまだ回復されていませんので、現実は、遅く来て、早く帰るということがしばらくは続きそうです。


もしあなたが、新規開店をしたら、どのようにお店を皆さんに知ってもらえるでしょうか。そして、お客様にお店に来ていただくようにするでしょうか。

たぶん、まずお金はかかっても広告による告知活動から始まると思います。ところが、2月3日の神戸の状況は、広告活動などは不可能でした。新聞の配達は止まり、広告会社の活動は休止し、なによりも買い物をしようとする市民の消費意欲自体が、生活中心でした。

 

そこで、広告媒体に頼らないで、私たちが自分のできる範囲の中で、広告をやろうということになりました。神戸市が支給してくれている「私はここに居ます」という掲示物が頼りです。これを手分けをして書きまくり、貼りまくり、 という方針になりました。

といっても、実際のところ、従業員にはそれぞれの震災による被害の程度に違いがあり、被害の大きいお家の方は、気が沈んでいました。それを平等な気持ちで働こうと呼びかけても、やや無理もありました。

被害の大きかった人は、何かと理由が続き、なかなか会社の復興の戦列に戻れない理由が続きました。

誰かが、どの段階かで、自分中心の話しを打ち切って、そろそろ全体の復興のための私たちに課せられた、私たち自身の使命に基づく、私たちしかできない本来の業務に戻るべき時がきているのです。このことを私は朝礼で集まっている人に向かって話しました。従業員の皆さん方へ協力をお願いしました。

イメージ画像
【2005年1月11日放映NHKより】

現実的な問題としては、勤務時間の問題がありました。交代休の問題もあります。従業員の中では、被害の状況に大きな差があります。ほとんど被害を受けていないものの、交通手段には皆さん平等に影響を受けていました。

自宅をはじめ、車、家具、財産などに損害を被った人もいます。せっかく買ったばかりの車が崩れてきた建物で大破してしまったという話しでした。いろいろなドラマが震災によって今、起きています。この中で、誰にも向けられない苛立ちや腹立たしさがあります。補償を求める相手もいません。ただただ損害の大きさに、皆さん気持ちが沈んでしまっています。

このようなつらく困難な時だからこそ、気持ちを前向きにしなければなりません。それなのに、将来に向けてこの会社をどうしていこうかという話にならないことが残念でなりませんでした。

阪神淡路大震災18日目:1995年2月3日(金)



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です