阪神大震災 3日目:有馬へ避難

阪神大震災 3日目になると、これからどのように生きていくのか、会社をどのようにするのかを考えねばならなくなりました。

三宮のセンター街が火事という噂を聞き、三宮に向かってみたものの、道路は秩序を失い近隣からきた救援の車や消防車が溢れ、震災当日のように車で三宮に向かうことはできなくなりました。電車も止まり車も走っていません。

三宮に行くには徒歩で行くしかないのです。しかも、途中は危険な状態でたとえ三宮に着いても誰も会社には来ていないと思います。

会社の再建を考えるにしても今の生活をなんとかしなければ、水と食べものすら不自由しています。余震もどれほど大きな地震が起きるか当時にはわからない不安な要因でした。

そこで、安全な生活の拠点を求めて、有馬に行ってみることにしました。六甲山のトンネルを抜けるまでに、警察官の手信号による順番待ちだけでも3時間ほどトンネルに入るまでにかかりました。大変な交通渋滞の中で有馬までの時間はとても長かったです。

驚いたことに、六甲トンネルを通り抜けて北区に入りしばらく走っていると、パチンコ屋さんのネオンがこうこうと輝いて、普段通りの営業をしていました。

「え~これはなんだ!?ここには地震が来なかったのか」と三宮との違いに驚きました。

六甲山のトンネルを一つ通り抜けるだけで、これほどまでに生活環境が一変するものかと、大変な驚きを覚えました。

有馬に行ってみたものの、生活の拠点としようと思ったマンションは配管が壊れ、水道が止まっていることがわかりました。岡本地区や三宮よりははるかに被害は少ないものの、水が出ないことには困りました。もう少し西へ一時疎開することを余儀なくされそうです。

少し気を取り直して散歩のつもりでマンションの周辺を歩き、さらにロープウェイのある駅に向かって周りの山を見まわしてみると、地滑りと山崩れにより、山の斜面が崩れ、土や岩肌が露にめくれて崩れ落ち、立ち木は山土とともに谷底へと崩れ落ちているようでした。

ゴーゴーと山に響く余震の音は、地面の奥から噴出すような重い振動を伴った不安を煽る不気味な山の響きでした。ここも強い余震がくれば山は崩れ、道は塞がれ、動くこともままならない危険な場所のように思えてきました。

そこで、疎開先をより安全な場所に求めてもっと遠くへ移ることにし、ここより西の岡山県の美作町、湯の郷に行くことにしました。

一部の高速道路は利用することができたので、朝神戸を出て、夜の8時ごろには美作町に入ることが出来ました。

湯の郷温泉地区では、ほとんど震災の影響もなく、ここでは水・ガス・食料などが普段のように入手できます。しばらくはここに生活の拠点を移し、再建をはかる対策本部とすることにしました。

国道脇のお店に入れば温かい食べ物が並び、お金を払えばほしい物が手に入る都市生活が戻ってきました。

3日目にして仮の対策本部ができたことで、公衆電話を使いながら出来るだけの関係先に安否を伝え、従業員の皆さん方の消息も確認が始まりました。

救援をしたくても院長と社長がどこにいるのかがわからなければ、医師会、取引先からの支援活動は始まりません。一緒に働いていた従業員の皆さん方も安否を連絡しあう情報の中心となる拠点を作ることができません。気になることがいっぱいあり、各方面の方にできるだけ電話をどんどんかけ、まずは生きていることを伝えました。

やっと入ることが出来たお風呂は、怖さと不安と焦燥感に包まれた疲れた体を暖めてくれました。今ごろはまだ神戸の被災者の方々はお風呂にも入ることが出来ないで、避難所で不自由な生活をされているのかと思うと胸が痛みます。


≫1/20東灘体育館(提供:阪神・淡路大震災『1.17の記録)

私が今、どこに避難しているかを発信することが出来ていませんから、心配して連絡を採って頂いた方にもどのように返信できるのか、為す術もありませんでした。あとから聞いた話では、個人的に救援物資を持って神戸の岡本にある私の自宅を西宮北口から徒歩で線路を歩いて届けてくださった方がいらっしゃいました。重い水をペットボトルに入れて、食べ物をリュックに背負い、わざわざ歩いて救援に来て下さったようです。

崩れた線路写真
≫東灘区阪神電車(提供:阪神・淡路大震災『1.17の記録)

メニコンの塚本弘昭さんは名古屋から来て下さいました。震災後3日目には大阪から西宮北口までは阪急が動いていました。西宮北口からは岡本まで線路伝いにみなさん歩いていたそうです。

アルファーコーポレーションの槙隆司さんは奈良から来ていただいたきました。大阪から船に乗り、海路を取って岡本にこられたということでした。これは意外でした。陸路だけでなく、船で救援に向かう方法もあったのです。

しかし、残念ながら神戸の岡本の自宅は罹災し住むこともできず、避難の為、疎開してしまった後だったので、重いリュックを背負い歩きながら、せっかく支援に持ってきて頂いた水と食料と励ましの勇気を直接いただくことはできませんでした。

私が不在のためにさぞがっかりされたことと思います。しかし、ご近所の方に水と食べ物は痛まないうちに召し上がりください、とその気持ちは生かされました。あとで聞いて大変うれしく感動しました。



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