阪神淡路大震災からの復興の記録/震災復興のマーケティング

1.17の震災から、20年が経過しました。あのときの、阪神大震災の被害と、その後からの震災復興を阪神淡路大震災の写真と、手帳を元に阪神淡路大震災からの震災復興の活動の記憶を記します。

アーケードの落ちたセンター街

阪神淡路大震災は、1995年1月17日午前5時46分ごろに起きました。阪神淡路大震災から、間もなく20年が経過しようとしています。

10年を一つの区切りとし、震災当時起きた事、復興に関わった事、多くの皆様方からご支援をいただいた事などの記録を残していきたいと思います。

松葉博雄は阪神淡路大震災当時、三宮のさんプラザビルでは職場が罹災し、東灘区岡本では自宅が罹災しました。

自宅前の道路

この阪神淡路大震災の罹災体験を基に、阪神淡路大震災の当時の様々な出来事や、復旧に携わり、地域の皆様、従業員、顧客、神戸市を始めとする公共団体、取引先、眼科医師会、などの支援を得て、全壊状態の事業所から復興に向けて立ち上がった時の事を記録して行きたいと思います。

阪神淡路大震災当時、復興にお力添えをいただきました皆様方に、感謝の気持ちと、ご協力のお礼をここに改めて申し上げたいと思っています。

崩壊したさんプラザビル

関東大震災以来の未曾有の大震災を経験し、復興を行う事はこれまでのマーケティング研究の事例にもありませんでした。マーケティング研究の基本に「主体と環境の適応」をどのように説明するかというテーマがあります。

阪神淡路大震災が突然起きた阪神地区の家屋の倒壊と6,000人以上の犠牲者、交通網の混乱、大規模火災の発生、さらに、避難生活から始まる市民生活のライフラインの復旧。

突然起きた地獄のような大震災の中で、少しずつ救援物資が身近な人から、あるいは、見知らぬ全国の皆様方から、更に、言葉も交わす事の無かった世界中の方々から集まりました。

阪神淡路大震災では、救援物資だけではなくて、人の心の温かさを伝えるボランティア活動の皆様が、テント生活者の中に、避難所の体育館の中に、あるいは復旧活動の現場の中に入って、私達を助けていただきました。

割れた神戸そごう

今から思えば、あの時起きた阪神淡路大震災の事は、わずか1分にも満たない瞬間のような地殻の変動でした。

そこから起きた事は一人一人の市民、一つ一つの企業にとってみれば、劇的な環境の変化に対して、主体としてどのように適応していくか、まさに明日を賭けて、人生を賭けて、命を賭けての闘いでもありました。

阪神淡路大震災の復興のマーケティング研究は、2004年の現在では、復興がほぼ出来ている状態だからこそ、考察を行なう事が可能となりました。

震災当時の「今日どのように生きるか」、「明日の糧はどのように獲得できるのか」、という一日、一日を生き抜いて行く事が精一杯の時には、マーケティング研究の意識すらありませんでした。

崩壊したさんプラザビル

しかし、マーケティングは「今日の販売」から、「明日の売れる仕組みを作る事」と言えます。
一日一日の生きる事から、「生き抜いて行く仕組みを作る事」を、震災復興のマーケティングでは行なっていた事を検証してみたいと思います。

企業は存続する事が第一の目的であり、それを可能にするのは顧客の創造である。
従って、阪神淡路大震災においてもまず企業が存続できるように行動を行ない、その為には一瞬にして失った経営資源を立て直し、再び顧客の創造、維持、育成へと立ち上がった事が、そこからの復興を可能にした事と言えます。

松葉博雄
2015年1月更新



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