お盆休みの沖縄 その2「2日目:終戦記念日にひめゆりの塔で歴史を伝える生き証人の話に涙す。」 

沖縄2日目です。今日は8月15日の終戦記念日です。今日の終戦記念日は戦後60周年の記念日でもあります。沖縄の空は今日も晴れています。ホテルから見る海は輝いています。

このような美しい海と空と緑の輝く中で、あのような凄惨な戦争があったことが今では信じられないほどの平和な時代になりました。

ホテルの部屋で、昨夜買ってきた簡単なお弁当の朝ごはんを食べた後、昨夜、お酒を飲んだため飲酒運転になるので、車を置いてきた朝日会のところへ一人で歩いて車をとりに行ってきました。

途中、花を見て写してみました。ブーゲンビリア、ハイビスカス、ブルーメリアなどがとても綺麗に撮れました。

港は、今は引き潮で水位が随分下へ引いていました。朝日会には誰もいませんでした。車をホテルまでつけて部屋に戻り、それから出発の準備をしました。

金城さんのお家にちょっと寄ってみました。今はヒヨドリを2羽、飼っているようです。このヒヨドリは雛のとき、どういうわけか、巣から落ちたのか、親にはぐれて、たまたま通りがかった金城さんに拾われて、今はすっかり金城さんに懐いているようです。エサを持ってくると、擦り寄ってきておねだりをするほど、よく慣れていました。

これから、南部方面の戦跡のお参りに行ってきます。できたら、お昼の12時に戦没者の慰霊祭があれば、参列したいと思っています。

高速道路に乗って、まず南部の「ひめゆりの塔」に行くことにしました。豊見城ICを経由し、県道7号線を道に取り、米須まで南下し、そこから右に行けば、ひめゆりの塔で、左に行けば、平和祈念公園となります。

まず、右に行き、ひめゆりの塔に先にお参りしました。

ひめゆりの塔自体は、それほど大きなものではありませんが、象徴的なのは地下の防空壕を病棟代わりに使い、ここに多くの傷病兵と医師および看護の人たちが、医療施設も、医薬品も劣悪な中で、最期まで励まし合いながら、6月18日の解散命令の日を迎えました。

ひめゆりの塔のすぐそばに「ひめゆり平和祈念資料館」ができているので入場しました。

この祈念館の活動は、生き残った同窓生の人たちが、皆さんで力を合わせて誰からの公的な資金も援助も受けないで、自分たちの力でこの戦争の悲惨さを伝える為に造ったとのことです。

私と奥さんは、今日の終戦記念日のお参りとして、お花を買って献花をしました。

ひめゆりの塔の周りを柵で囲い、その柵の下にはかつての病棟である防空壕が当時のまま保存されています。今は柵のすぐそばに献花台が設けられ、たくさんの方が毎日冥福を祈る鎮魂の祈りを捧げています。

病院といっても、野戦病院なので、防空壕の中に造られた本当に医療施設としては粗末なものです。ここに木製の蚕棚のような二段式の簡易ベッドが洞窟に沿って並べられ、次から次へと運び込まれる傷病兵を収容しました。

しかし、医薬品はほとんどなく、化膿した患部からはウジがわき、壊死を防ぐために、麻酔薬のないまま、皆で押さえつけて手足の患部を切断したということです。

詳しいことは、平和祈念資料館をリンクしていますので、こちらを参照してください。

 

 

1945年4月1日から始まった沖縄本島への米軍の侵攻は、わずか2ヶ月あまりの6月18日には、日本軍から解散命令が出るに及び、行き場を失った民間人の人たちは、多くは自決、戦死、負傷などにより、多くの犠牲者を出しました。

迫り来るアメリカ兵が投降を呼びかけても、「戦陣訓」に従って、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という教育に洗脳され、自らが死を選ぶ結果となりました。

今となっては、ずいぶんとむごい事を強要したものです。

祈念館です。広い中庭にぐるっとまわるような形で建物が広がって、それぞれの部屋には戦争の悲惨さを伝える展示物や、あるいはスライドやテレビなどが当時の模様を伝えています。16,17才で動員された女子高校生の人たちは、ほんの少しの人たちが生き残っていますが、彼女達がこの記念館を作る原動力となりました。今回、この元ひ めゆり学徒の方が、歴史を伝える証人として、館内で当時のことを直接入館者に語りかけてくださいました。以下は、その時に聞いたお話です。

1945年4月といえば、東京大空襲、サイパン玉砕、その後に沖縄の決戦ということになりましたが、実際は敗戦の色濃く、沖縄で抵抗する意味も希薄な戦況 でした。ところが、沖縄の人たちにはまだ本当の戦況を伝える情報が伝えられていなかったので、必ず勝つものだと思っていたそうです。

そして、病院へ行くように言われて、皆で手伝いに行きました。ひめゆり学徒の女学生たちは、すぐに陸軍病院に配属されました。4月1日、米軍は沖縄本島に 上陸し、徐々に南下してくるに従い、日本軍の死傷者が激増します。その結果、更迭されてくる負傷兵の看病や水汲み、あるいは手当、あるいは死体埋葬に追われ、仮眠を取る閑もなくなったそうです。

最初は、手足を切断する医療現場で、卒倒したり、目も開けられなかった学徒も、毎日のことなので、次第に慣れていきます。遺体の埋葬、切断した手足の埋葬、傷の手当て、傷口の膿の吸い取りなど、看護教育も受けないまま、苦しむ傷病兵を助けるために一生懸命病院に協力しました。5月下旬になると、米軍が迫ってくる中、生徒達は日本軍とともに陸軍病院を出て本島、南端部に向かいました。激しい艦砲射撃が続く中で、6月18日を迎えます。

その日、学徒たちには突然の「解散命令」を受けました。もう逃げるところもない中で「これからみんなで自由にしていい」と言われても、どうしようもない状態だったそうです。しかも、防空壕にも戻ってはいけないということになりました。米軍が包囲する戦場を逃げ惑い、ある者は砲弾で、ある者はガス弾で、あるいは自らの命を手榴弾で失いました。

奇跡的に助かった人たちは、ほとんどが気を失ったり、あるいは奇跡的に捕虜となって助かった人だけでした。ほとんどの人が亡くなりました。今も大きな災害や天災、事故が起きたとき、生存者の心の中には、「自分だけ生き残って申し訳ない」という自責の念にとらわれることがあります。ひめゆり学徒の生存者の方も、終戦後、長らくこの「自責の念」の呪縛がありました。しかし、戦後40年あまりも経って、やっと、歴史を伝える証人、語り部としての新しい使命感が芽生え、そのエネルギーが一つに集まり、平和祈念資料館の建設の原動力となりました。

次の目的地は平和祈念公園です。その間に途中、お昼をいただきました。このお店では、バイキング形式の昼食となります。

海の見える高台での食事で、ここで60年前、大変な戦闘が繰り返され、多くの人が犠牲になったとは思えないような今は平和な佇まいになっています。

午前中は、思わず涙も出るほどの悲しいお話を歴史を伝える生き証人から直接聞き取る機会に恵まれました。

松葉博雄の父は、太平洋戦争では軍医としてフィリピンに出征し、食べるものもないまま野山を彷徨した話を、子供のときに父から直接聞いた記憶があります。

子供のとき、食べ物に不満を言ったとき、フィリピンでは虫や小動物を食べたことを思えば、贅沢を言ってはいけないと叱られたことを今日の終戦記念日にあらためて思い出しました。思えば、戦後60年でずいぶんと贅沢な生活に慣れてしまったものです。次は、平和祈念公園に行きます。

2005年8月15日(月)

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