丹波篠山 王地山まけきらい稲荷

丹波篠山の「まけきらい稲荷」を参拝してきました。

丹波篠山の「まけきらい稲荷」の由来について

昔、篠山藩主・青山忠裕(ただやす)公が幕府老中だった文政年間(1820年頃)、毎年春と夏に、江戸両国の回向院広場で将軍上覧の大相撲が催されていましたが、いつも篠山藩のお抱え力士たちは負けてばかりだったそうです。

しかし、ある年の春場所のこと、篠山から来たという王地山平左衛門ら8名の力士と行司1名、頭取1名の一行10名が現れ、土俵に上がると連戦連勝しました。

”負け嫌い”のお殿様は大変喜んで、その者達に褒美をやろうとされたが見つからず、後で調べてみると、全員が篠山藩の神社のお稲荷さんの名前だったそうです。

そこで、それぞれに幟や絵馬などを奉納し感謝したことが「まけきらい稲荷」の由来・・・、とのことでした。

2004年の8月の暑い時、この神社に参拝し、あまりに暑いので涼をとるために涼しそうな拝殿に上がり、しばし天井を眺めながら仰向けになっていました。

ふと目を横にすると、拝殿の横の壁に相撲をとる力士の絵巻が板塀にかけてありました。

神社を上る石段に、まけきらいの幟がたくさん立ててありましたが、なんの意味かわからなかったのが、この力士の絵巻を見て、初めて「まけきらい」の意味がわか りました。

昔のお殿様には贔屓力士がいたり、お抱え力士がいて、自分の藩の力士と他の藩の力士が土俵で勝負を競い、勝った、負けたで藩の名誉がかかってい た事を、子供の時に「講談社」の本で読んだ事があります。

今も覚えているのは、雷電為右衛門が雲州松江藩の松平公のお抱え力士で、松平公はこの雷電為右衛門がとっても強い事が自慢で、他の大名に自慢していたことを本で読みました。

今年はオリンピックの年で、アテネでは世界中からオリンピックのメダルを目指し、各国の名誉をかけた競技がありました。

今も昔も、地元や自分の贔屓の選手やチームが勝つと、うれしくなったり、負けると”くしゅん”となることは、人の気持ちとして同じだなぁ、と天井を見ながら思いました。

殿は涼しくて風も通り、いつのまにか少しウトウトと寝てしまいました。夢に出てきたお稲荷さんが、私を勝たせてくれたらいいのになぁ・・・と期待しながら、ウトウトしていました。